top of page
検索


再会 <106> 躍動するフルミント
Anita & Hans Nittnaus, Furmint Ried Tannenberg 2024. 葡萄の越境を考えるとき、私たちはたいてい、一つのわかりやすい物語を想像する。
有名産地の葡萄が、まだ名の知られていない土地へ渡っていく。
マイナーな産地が、メジャーな産地の言語を借りる。
シャルドネを植えればブルゴーニュの旋律が鳴り、カベルネを植えれば、どこかボルドーめいた低音が響く。
もちろん、現実はもう少し複雑だが、ワインの入口に立つ人々を引き寄せるには、それだけで十分なわかりやすさを持っている。 しかし、その逆は、あまり想定されない。
つまり、名高い土地の葡萄が無名の土地へ渡るのではなく、周縁に置かれていた葡萄が、いま注目される産地へ入り込み、その土地の新しい表現を作り始めるという動きである。
しかもそれは、単なる移植ではない。
かつて国境の両側にあった記憶を、現在のワインとして読み直す行為でもある。

梁 世柱
3 日前


ペアリングのパーソナライズ <9> 季節感:夏 Part.3
夏を飲む 夏を、ただ爽やかさの記号としてではなく、開放感と疲労、みずみずしさと濃度が同居する季節の総体として捉えるなら、ワインペアリングは、質感や酸の設計だけで完結するものではない。 まだ見なければならない論点がある。 香りは、どのような印象を残すべきか。 そして、飲み込んだあとに何が待っていると良いのか。 Part.3で見ていきたいのは、その二つだ。 第三に、夏にふさわしいのは、熱を少し霧散させるような爽やかさを持ちながら、なおかつ酸の気配を伴った香りである。

梁 世柱
5 日前


樽風味は時代遅れなのか
新樽の風味を濃厚に効かせたワインが、少しずつ時代の中心から遠ざかっている。 かつては紛れもない高級感の証だった。 ヴァニラ、トースト、チョコレート、甘いスパイス。 熟した果実にそれらを重ね、滑らかに溶かし込み、隙のない一体感へ仕上げることは、ひとつの完成された美の形だった。 だが、時の流れと共に、飲み手の感覚は変わる。 透明感。 軽やかさ。 テロワールの声。 飲み疲れしない優しさ。 そうした言葉が価値を持ち始めると、かつての豪華さは、ときに受容しがたい重さへ変わる。 では、樽そのものが時代遅れになったのか。 そうではない。 ここで興味深い証明として立ち上がるのが、古典的なリオハである。

梁 世柱
6月3日


出会い <105> ハプスブルクの残響
3/4 -Tři Čtvrtě , Frankovka 2023. 現在、中東欧において、ワイン産出国として十分に成立する規模を持ちながら、日本のワイン学習の標準的な地図から、ほとんど抜け落ちている国がある。 チェコである。 チェコと聞いて、最初にワインを思い浮かべる人は多くないだろう。
プラハの美しい中世の街並み。歴史を刻んできた石畳。極上のビール。
そのあたりで大体想像力は満杯になる。 だが、謎に包まれているように見えるものほど、視点を少しずらすと、案外あっさり実像が見えてくるものだ。 チェコワインを理解する上で、最初に押さえるべき事実は単純だ。
チェコにおけるワイン用葡萄畑の大部分(約96%)は、南モラヴィアに集中している。 つまり、チェコワインを語るとは、ほとんどの場合、南モラヴィアを語ることに近い。

梁 世柱
5月30日


ペアリングのパーソナライズ <8> 季節感:夏 Part.2
夏を支える 夏を、ただ爽やかで軽い季節としてではなく、開放感と疲労、みずみずしさと濃度が同居する季節の総体として捉えるなら、ワインペアリングに求められる条件も自ずと変わってくる。 ここで考えたいのは、暑さを誤魔化すための冷たさではない。 熱のただ中に置かれた身体と、すでに外へ向かって開いた夏の食材を、ワインがどう支えられるかである。 夏の料理と身体に共通しているのは、涼しさを欲しながらも、単純な軽さだけでは満たされないという点だ。
だから、よく冷えていて、ただ軽ければよいという発想では、季節の実感には届かない。 第一に、夏に適するのは、軽やかで滑らかに流れ、明確なシルエットを保ちながら、必要十分な密度を備えたワインである。 夏の食材は、たしかにみずみずしい。だが、そのみずみずしさは、淡さとは違う。

梁 世柱
5月29日


ワイナリー訪問記 <2> Prager, in Wachau Austria
アポイントまで少し時間が空いたので、適当にサンドウィッチを頬張ったあと、ドナウ川のほとりにあったベンチに寝転がった。 空は大きく、川は静かだった。 観光客の声も、車の音も、ここではずいぶん薄まっていく。 自分がここへ何をしに来たのかさえ、一瞬だけ曖昧になる。 出所のわからない感傷があった。 旅の疲れかもしれない。 午前中に終えた訪問の余韻かもしれない。 あるいは、Wachauという土地が持つ長い時間に、こちらの境目が少し溶け出していたのかもしれない。 川面に砕けた光が、水晶の欠片のように輝いていた。 この日訪れたのは、Wachauを代表する名ワイナリーの一つ、Pragerである。

梁 世柱
5月26日


ペアリングのパーソナライズ <7> 季節感:夏 Part.1
夏をほどく 夏という季節感に向き合うには、まず夏を一つの表情だけで受け取らないことが必要だ。 夏はよく、開放の季節として語られる。 日照は長くなり、空は大きく開き、街も人もどこか外向きになる。 たしかに、それも夏の顔のひとつだ。 けれど、夏をただ明るく、ただ軽快な季節として受け取ると、すぐに見落としが生まれる。 この季節を形づくっているのは、開放感だけではない。 熱の蓄積、湿度の停滞、光の過剰、身体の消耗。 そうしたものまで含めて、夏の輪郭はようやく見えてくる。

梁 世柱
5月22日


ナチュラルワイン:その自由は、どこで育ったか(期間限定無料公開)
ナチュラルワインを語るとき、私たちはしばしば、クラシックワインとは別の言語を使おうとする。 エネルギーがある。 生命力がある。 揺らぎがある。 身体に馴染む。 整えすぎたワインにはない、剥き出しの説得力がある。 たしかに、そういうナチュラルワインは数多く存在する。 グラスに注いだ瞬間、産地名、格付け、熟成ポテンシャルといった言葉を一度脇へ押しやり、飲み手の感覚へ直接触れてくるワイン。 果実、酸、タンニン、アルコールといった要素へ分解される前に、一つの動きとして身体にするりと入ってくるワイン。 ナチュラルワインがワインの世界にもたらした功績の一つは、この種の感受性を、無視できないものとして差し出したことだと思う。 だが、新しい言葉が必要だったことと、新しい言葉だけでワインの価値を説明できることは違う。 ここを取り違えると、ナチュラルワインを取り巻く話は急に危うさを帯びてくる。 クラシックワインの世界では、品質はいくつかの基本条件と結びつけて考えられてきた。 どの畑か。 その畑は、本当に優れているのか。 そこに植えられた葡萄は、その土地に適しているの

梁 世柱
5月21日


出会い <104> オーストリアの本命ピノ・ノワール
Landauer-Gisperg, Pinot Noir Ried Schönkirchen 2021. 聖地ブルゴーニュがあまりにも高騰した現在、オールドワールドの「妙」を諦めきれない愛好家たちは、ヨーロッパ中でピノ・ノワールの捜索願を出している。 もちろん、これは優雅な旅ではない。 赤い果実が華やかに香り、酸が細く長く伸び、タンニンが絹のようにほどけ、なおかつ値札を見て軽い目眩で済むワインを探す。 それは、現代ワイン愛好家に課された新たな巡礼である。 現時点で、「目的地」の筆頭として名が挙がることが多いのは、やはりドイツだろう。

梁 世柱
5月17日


ワイナリー訪問記 <1> Martin & Melanie Muthenthaler in Wachau, Austria.
これまで、ワイナリーを訪問した際のレポートは、各産地の特集記事に組み込む形で公開してきましたが、今回から、(特にすでに特集記事を組んだことがある産地に関しては)レビューカテゴリーの中で「ワイナリー訪問記」として分離します。 産地を知ることは、地図を広げて俯瞰する仕事である。 一方で、ワイナリー訪問は、地図に足を置く仕事だ。 同じWachauと書かれていても、Loibenの光とSpitzer Grabenの冷気は違う。 同じRieslingと書かれていても、ドナウ川のほとりで育つものと、森へ向かって谷が細くなっていく場所で育つものでは、背筋の伸び方が違う。 その真理を五感で知るために、私は時に不便なところでも、迷いなく足を運ぶ。 車を運転しない私は、海外でワイナリーを訪問する際も、可能な限り公共交通機関で移動する。 ワイン産地において、車を持たない人間は、ときどき文明の外側に置かれる。 タクシーは走っていない。バスは来ない。電車は、こちらの都合など当然知らない。 それでも私は、この不便さをそこまで嫌っていない。 便利すぎる移動は、土地を素早く通過さ

梁 世柱
5月15日


改善という静かな破壊
レトロな町中華は、完璧だから愛されているわけではない。 むしろ、完璧ではないことを、客の側もどこかで引き受けている。 少し色褪せた食品サンプル。 油の染みたカウンター。 貼り紙の端がめくれた壁。 炒飯は日によってわずかに揺れ、スープには最新の味覚設計ではなく、何十年も同じ寸胴の前に立ってきた時間が沈んでいる。 そこに点数をつけることはできる。 だが、それを前面に出した瞬間、ラーメンの湯気より先に、こちらの無粋さが立ちのぼるだろう。 評価が存在しないのではない。 ただ、評価を露出させすぎないという、ささやかで、どこか慎ましい作法があるのだ。 「もっと良くなってほしい」よりも、「どうかこのままでいてほしい」。 改善よりも保存。 最適化よりも郷愁。 そこでは、変わらないことが怠慢ではなく、個性の最後の防波堤になる。

梁 世柱
5月13日


ペアリングのパーソナライズ <6> 季節感:春 Part.3
春を飲む 春を花や光の記号としてではなく、揺らぎを含んだ季節の総体として捉えるなら、春のペアリングは、軽やかさを装うことでも、酸や透明性でただ支えることでも終わらない。 そこにさらに問われるのは、香りがどのような陰影を帯びるべきか、そして質感がどのような張力を保つべきかである。 春という季節感に真に寄り添う一本は、最終的にはこの二つの層の向こう側で、その精度を問われる。 第三に、春にふさわしいのは、甘美だが表層的な香りではなく、甘さと苦さが混在する奥行きのある香りである。

梁 世柱
5月8日


ペアリングのパーソナライズ <5> 季節感:春 Part.2
春を支える 春を花や光の記号としてではなく、明るさと不安定さ、軽さへの欲求となお残る鈍さが同居する季節の総体として捉えるなら、ワインペアリングに求められる条件も自ずと変わってくる。 問題は、表層的な春らしさを演出することではない。 立ち上がりの途中にある味や身体感覚を、どのように損なわず支えるかである。 春のペアリングに必要なのは、単純な軽快さではない。 香りが華やかで、口当たりが軽ければよいという発想では、季節の実感に届かない。 第一に、ワインには透明性と抑制が必要である。 春の食材は、山菜の苦味、豆の青み、貝のほのかな塩気のように、立ち上がりの途中にある繊細な味わいを備えている。

梁 世柱
5月2日


都合の良い審美眼
Prieuré Rochと、沈黙するクラシックワイン愛好家 プリューレ・ロックは、私にとって敬愛すべき造り手である。 そして、私が長年、プリューレ・ロックを取り巻く歓喜に抱いてきた違和感は、ワイン好きの社交における小さな禁忌でもある。 テロワールの声を的確に捉えるそのワインには、自然派という便利な分類には収まりきらない精度がある。 野性はあるが、粗暴ではない。 揺らぎはあるが、無秩序ではない。 そこには思想の押し売りではなく、経験によって支えられた自由がある。 だから、ここで問いたいのはプリューレ・ロックの品質ではない。 このワインは、十分過ぎるほど美しい。 問題は、その美しさを前にした飲み手の態度である。

梁 世柱
5月1日


赤の地図 <オーストリア・ブルゲンラント特集:後編>
白ワインの国として語られるオーストリアに、赤ワインの側から異議を申し立てる。 そう書くと、いかにも挑発的に聞こえるかもしれない。 しかし本来、これは奇をてらった反論ではない。 ただ、見落とされてきたものを、見落とされたままにしておかないという、ごく当然の抵抗である。 ワインにおいて地名は、決してラベルの上に置かれた装飾ではない。 そこには、目には見えない風の回廊があり、日光が紡いだ金糸があり、丘陵のうねりが刻むリズムがあり、大地の熱狂と沈黙があり、そして何世代にもわたってそこで暮らし、葡萄を育て、ワインを造ってきた人々の記憶がある。 だからこそ、地名は重い。 問題は、その重さを丁寧に読み解こうとしないまま、都合の良い記号として乱暴に使う態度にある。 有名な地名には、説明を省略してもらう。 聞き慣れない地名には、理解を後回しにする。 それでいて、自分の舌は十分に公平だと信じていられるのだから、ワインの世界における教養とは、ときにずいぶん寛大な衣装である。 だが、土地は人間の怠慢を上品に包み直してはくれない。 葡萄は名声の序列に従って熟すわけではなく

梁 世柱
4月27日


ペアリングのパーソナライズ <4> 季節感:春 Part.1
春をほどく 春という季節感へのアプローチは、まず春そのものを見誤らないところから始まる。 春はしばしば、花の季節として語られる。 光はやわらぎ、空気はほどけ、世界は一斉に色づき始める。 たしかにそれは春の一面ではある。 だが、春の本質は、ただ明るく軽やかなことにあるのではない。 むしろ、明るさと不安定さが同時に進んでいく、その頼りなさにこそある。 東アジアの古い季節観は、そのことをよく知っていた。

梁 世柱
4月25日


点数はワインを救ったのか、殺したのか
8000年を超える歴史を誇るワインの世界には、ときどき妙に現代的な悲喜劇が起きる。 古い権威に疑念をぶつけるために持ち込まれた仕組みが、やがてそれ自身、より効率的で、より流通に適し、より疑われにくい新たな権威へと変貌する。 ロバート・パーカーJr.と100点満点法がもたらした変化も、まさにそういう種類の出来事だった。 まず認めておくべきことはある。 点数法は、歴史的名声や伝統的権威を完全に打ち砕いたわけではない。 名門は名門のままであり、偉大な畑は依然として偉大なままだった。 だが、それまであまりにも長く効きすぎていた「名門だから無条件偉大」という空気に対して、点数法は驚くほど無遠慮だった。 由緒があろうが格付けがあろうが、出来が悪ければ低く評価する。 逆に、新顔であっても良ければ高く評価する。 その忖度のなさは、旧来の権威に安住を許さなかった。 その意味において、点数はたしかにワイン市場を救った。 ワインは長いあいだ、味わいを楽しむよりずっと前の段階で、教養を要求する商品だった。 産地、格付け、生産者、葡萄品種、ヴィンテージの評判。店頭に並ぶボ

梁 世柱
4月24日


再会 <103> 敬愛の対象
Grace Wine, Cuvée Misawa 2021. 日本の地で、カベルネを用いて赤ワインを造る。 その事実だけを聞けば、ワイン愛好家の中には、すぐに地図を頭の中で折り畳み、別の地図を広げる人々も多いだろう。 ボルドーである。 より正確に言えば、「ボルドーのようなもの」を期待する。 香り、骨格、熟成の気配、優美な古典の舞い。 その期待は理解できる。 世界のワインが長きにわたり、ボルドーという巨大な文法のもとで夢を見てきたことは否定できない。多くの産地にとって、それは憧れであり、規範であり、ときに呪いでもあった。 だが、本物のボルドーがこの世界に変わらず君臨している以上、他の土地がその複写を目指すことには、どこか根本的な空虚感がある。

梁 世柱
4月21日


ペアリングのパーソナライズ <3> 季節感:前段
ペアリング理論がまず提示するものは、正しさである。 完璧に理論武装されたペアリングは、正しすぎるほど正しい。 だが、もし正しさだけで記憶に残るのなら、世界中の食卓はとっくに感動で満ちていなければおかしい。 皿とグラスのあいだで、毎晩のように小さな奇跡が起きていなければつじつまが合わない。 実際には、理屈としては申し分のないペアリングが、ひどく無機質で、どこか空気の通わないものとして感じられることがある。その一方で、どうしても説明しきれない「何か」が、不意に心の奥へ沈み、あとになって静かに浮かび上がってくることもある。 その「何か」を形づくる要素の一つが、季節感である。 厄介で、曖昧だが、四季のある国で生きる人々にとっては、決定的とすら言える要素だ。 気づかぬうちに肌に触れ、呼吸の深さを変え、食べる速度や、飲みたいものの質まで変えてしまうそれは、まるで見えない支配のようなものでもある。

梁 世柱
4月20日
bottom of page

