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権威があなたを裏切った日-ミシュラン・グレープ- (期間限定無料公開)
Michelin Guideが、ブルゴーニュの生産者に対する新たな格付けを発表した。 案の定、発表直後から議論が噴出した。 反応を、少し乱暴にまとめてしまえば、こんなところだ。 「あのドメーヌが、この位置なのはおかしい。」 「昔から偉大とされてきた生産者が、なぜ名前も知らないドメーヌより下なのか。」 「こんな格付けは信用できない。ミシュランも地に落ちた。」 一方で、Domaine Arnoux-Lachauxは、少し違う角度から異議を唱えた。 近年、ミシュランを受け入れず、プレスにもワインを提示していないにもかかわらず、現在のドメーヌを何に基づいて評価したのか。 順位ではなく、評価へ至るプロセスを問い、掲載の削除を求めた。 この二つは、同じ反論ではない。 一方は、プロセスへの問いである。 もう一方は、自分の記憶と違う、という不満だ。 私は、今回のミシュランの格付けが正しいと言いたいわけではない。 逆に、間違っていると断じるつもりもない。 そもそもワインの評価とは、それほど簡単に正誤へ振り分けられるものではない。 ワインは嗜好品である。 そして、評

梁 世柱
7月15日


難しい言葉の甘い香り
ワイン業界は、なぜこんなにも難しい言葉を愛してしまうのか。 ミネラル。テンション。エネルギー。 透明感。躍動感。垂直性。 そしてテロワール。 もちろん、それらの言葉がすべて無意味だと言いたいわけではない。 むしろ、私はその多くを日常的に使っている。 ミネラルという言葉に助けられたことは何度もあるし、テンションという一語でしか掴めない質感もある。 エネルギーという表現でなければ伝えきれない、液体の中の妙な動きも確かに存在する。 そして、テロワールは幻想ではなく、現実に作用しているものだと信じている。 だからこれは、外側から石を投げるための文章ではなく、かなり内側にいる人間としての、自戒である。 問題は、難しい言葉そのものではない。 本当の問題は、その言葉が誰に届くのかを、こちらが考えなくなった瞬間から始まる。

梁 世柱
7月9日


親愛なる純米酒愛好家へ
日本酒の世界には、純米酒以外を認めない人々がいる。 皮肉を込めて、あえて純米酒原理主義者と呼ぼう。 純米酒が好きだというだけなら、何の問題もない。 米と米麹と水だけで造られた酒の「純粋さ」に魅力を感じる。 醸造アルコールを使った酒よりも、純米酒の旨味、ふくらみ、やさしさを好む。 その気持ちは十分すぎるほど理解している。 そもそも、酒の好みは自由だ。 純米酒だけを飲む自由もある。 純米酒だけを扱う店があってもいい。 純米酒に造り手の思想を見出し、そこに深く共感する飲み手がいてもいい。 私が問題視しているのは、そこではない。 問題は、純米酒への嗜好が、いつの間にか他の酒を裁くための木槌に変わることだ。

梁 世柱
7月2日


水を差すジャーナリズム
どんなワインを造っても、それは造り手の自由。 どんなワインを好きだと言っても、それは飲み手の自由。 どんなワインにこだわって販売しても、それは売り手の自由。 その通りだ。 まったく、その通りだと思う。 ワインは、解答の用意された試験ではなく、誰かの好みを裁判所に引きずり出すような飲み物でもない。 それぞれがもつ「選択の自由」に外側から手を突っ込み、「これは正しい」「これは間違っている」と乱暴に決めつけることは、たしかに傲慢だ。 だが、問題はその先にある。 自由は、否定されるべきものではない。 しかし、自由を印籠のように掲げれば、すべての問いから逃れられるわけでもない。

梁 世柱
6月25日


対話:ナチュラルワインと現場のリスク
ヨーロッパのある国で、二十年以上ナチュラルワインを専門に扱ってきたというワインプロフェッショナルに出会った。 綺麗に整えられた、長く豊かな顎髭、細身の長身、そして、屈託のない笑顔。 その人には、長い時間をワインと共に過ごしてきた者だけが持つ、穏やかな確信があった。 知識を誇示するのではなく、経験が身体の奥で熟成し、必要なときだけ言葉になる。 そんな空気感のある人だった。 他愛のない自己紹介を済ませたあと、話題はやがてナチュラルワインにおける欠陥へ辿り着いた。 様々な欠陥の話が出たが、議論の中心になったのはネズミ臭だった。

梁 世柱
6月11日


樽風味は時代遅れなのか
新樽の風味を濃厚に効かせたワインが、少しずつ時代の中心から遠ざかっている。 かつては紛れもない高級感の証だった。 ヴァニラ、トースト、チョコレート、甘いスパイス。 熟した果実にそれらを重ね、滑らかに溶かし込み、隙のない一体感へ仕上げることは、ひとつの完成された美の形だった。 だが、時の流れと共に、飲み手の感覚は変わる。 透明感。 軽やかさ。 テロワールの声。 飲み疲れしない優しさ。 そうした言葉が価値を持ち始めると、かつての豪華さは、ときに受容しがたい重さへ変わる。 では、樽そのものが時代遅れになったのか。 そうではない。 ここで興味深い証明として立ち上がるのが、古典的なリオハである。

梁 世柱
6月3日


ナチュラルワイン:その自由は、どこで育ったか(期間限定無料公開)
ナチュラルワインを語るとき、私たちはしばしば、クラシックワインとは別の言語を使おうとする。 エネルギーがある。 生命力がある。 揺らぎがある。 身体に馴染む。 整えすぎたワインにはない、剥き出しの説得力がある。 たしかに、そういうナチュラルワインは数多く存在する。 グラスに注いだ瞬間、産地名、格付け、熟成ポテンシャルといった言葉を一度脇へ押しやり、飲み手の感覚へ直接触れてくるワイン。 果実、酸、タンニン、アルコールといった要素へ分解される前に、一つの動きとして身体にするりと入ってくるワイン。 ナチュラルワインがワインの世界にもたらした功績の一つは、この種の感受性を、無視できないものとして差し出したことだと思う。 だが、新しい言葉が必要だったことと、新しい言葉だけでワインの価値を説明できることは違う。 ここを取り違えると、ナチュラルワインを取り巻く話は急に危うさを帯びてくる。 クラシックワインの世界では、品質はいくつかの基本条件と結びつけて考えられてきた。 どの畑か。 その畑は、本当に優れているのか。 そこに植えられた葡萄は、その土地に適しているの

梁 世柱
5月21日


改善という静かな破壊
レトロな町中華は、完璧だから愛されているわけではない。 むしろ、完璧ではないことを、客の側もどこかで引き受けている。 少し色褪せた食品サンプル。 油の染みたカウンター。 貼り紙の端がめくれた壁。 炒飯は日によってわずかに揺れ、スープには最新の味覚設計ではなく、何十年も同じ寸胴の前に立ってきた時間が沈んでいる。 そこに点数をつけることはできる。 だが、それを前面に出した瞬間、ラーメンの湯気より先に、こちらの無粋さが立ちのぼるだろう。 評価が存在しないのではない。 ただ、評価を露出させすぎないという、ささやかで、どこか慎ましい作法があるのだ。 「もっと良くなってほしい」よりも、「どうかこのままでいてほしい」。 改善よりも保存。 最適化よりも郷愁。 そこでは、変わらないことが怠慢ではなく、個性の最後の防波堤になる。

梁 世柱
5月13日


「飲みやすい」は褒め言葉か
ワインを前にして、私たちはしばしば「飲みやすい」と言う。 悪い言葉ではない。 むしろ、実によくできた言葉である。 角がなく、誰も傷つけず、場を乱さない。 ソムリエはうなずき、同席者は安心し、ワインはとりあえず無事に食卓を通過する。 だが、便利すぎる言葉は、たいてい多くのディテールを削り落としたあとに残る。

梁 世柱
5月6日


都合の良い審美眼
Prieuré Rochと、沈黙するクラシックワイン愛好家 プリューレ・ロックは、私にとって敬愛すべき造り手である。 そして、私が長年、プリューレ・ロックを取り巻く歓喜に抱いてきた違和感は、ワイン好きの社交における小さな禁忌でもある。 テロワールの声を的確に捉えるそのワインには、自然派という便利な分類には収まりきらない精度がある。 野性はあるが、粗暴ではない。 揺らぎはあるが、無秩序ではない。 そこには思想の押し売りではなく、経験によって支えられた自由がある。 だから、ここで問いたいのはプリューレ・ロックの品質ではない。 このワインは、十分過ぎるほど美しい。 問題は、その美しさを前にした飲み手の態度である。

梁 世柱
5月1日


点数はワインを救ったのか、殺したのか
8000年を超える歴史を誇るワインの世界には、ときどき妙に現代的な悲喜劇が起きる。 古い権威に疑念をぶつけるために持ち込まれた仕組みが、やがてそれ自身、より効率的で、より流通に適し、より疑われにくい新たな権威へと変貌する。 ロバート・パーカーJr.と100点満点法がもたらした変化も、まさにそういう種類の出来事だった。 まず認めておくべきことはある。 点数法は、歴史的名声や伝統的権威を完全に打ち砕いたわけではない。 名門は名門のままであり、偉大な畑は依然として偉大なままだった。 だが、それまであまりにも長く効きすぎていた「名門だから無条件偉大」という空気に対して、点数法は驚くほど無遠慮だった。 由緒があろうが格付けがあろうが、出来が悪ければ低く評価する。 逆に、新顔であっても良ければ高く評価する。 その忖度のなさは、旧来の権威に安住を許さなかった。 その意味において、点数はたしかにワイン市場を救った。 ワインは長いあいだ、味わいを楽しむよりずっと前の段階で、教養を要求する商品だった。 産地、格付け、生産者、葡萄品種、ヴィンテージの評判。店頭に並ぶボ

梁 世柱
4月24日


ナチュラルワイン 開かれた問いと責任の所在
SNSで、とある飲食店の店主が執筆したと思われるエッセイを目にした。理路整然とした実に素晴らしい内容で、共感できる部分も非常に多くあった。 しかし、情緒、感情、対話を重視するあまり、少々危うい理論の飛躍に至っていると感じる部分も少なからず見受けられた。 エッセイの根幹部分は大変素晴らしい主張であるため、ジャーナリストとして真正面から然るべき異議を唱えつつ、理が弱いと感じる部分を補完していこうと思う。 当該エッセイの内容を、「前提」「主張」「結論」の三層に分けて要約すると、以下の通りとなる。 前提 ワインは、人間だけでなく、土壌中の微生物、酵母、気候、セラー環境など、多数の非人間的要因との相互作用のなかで生成されるにもかかわらず、一般的な品質論では「人間は技術によってワインを制御できるはずだ」という前提が置かれやすい。

梁 世柱
4月14日


なぜ学ぶのか
ワインのことを「教える立場」になってから、随分と時間が経ったが、この間に人々の学びを観察してきた結果は、なんとも残酷なものだったのかもしれない。 ワインを学ぼうとしている人々の「学びたいワイン」が、ブルゴーニュ、ボルドー、シャンパーニュ、カリフォルニアなどの有名人気産地に、極端なほど集中してしまっているのである。 それはそうだろう、と多くの人は思うだろう。 きっとそうだろう、と私も思ってはいた。 だが、実態として目の当たりにすると、それなりにショックは受けるものだ。 私が情熱を注いでいる数多くのワイン産地に対して、大多数の人々は一欠片の興味すら抱いてないのだから。

梁 世柱
4月10日


SNSを荒らした、自然派を「装った」ワインとは(特別無料公開)
突然、「日本ワイン 自然派」という語をめぐって、SNSがざわつき始めた。 何をいまさら、と思いながら経緯を追っていくと、日本のワイン産業に対して強大な影響力をもつとある人物が、「日本の自然派を装ったワインの98%は、飲めたものではない。あのようなものが、初めてワインを飲む人の口に渡ったら大変だ」という趣旨の発言をされたらしい。 この種の騒ぎではいつも、対象の輪郭も、言葉の射程も、文脈も十分に確かめられないうちに、断定だけが一人で歩き始める。 今回もまた、その見慣れた光景が、少しばかり華やかに再演されているように見える。 「自然派を装った日本ワイン」なるものを一括して断罪する声は、案の定、勢いよく増殖している。 SNSという劇場は相変わらず、考えるより先に合唱することにかけて、実に勤勉だ。 もっとも、ひとつ留保しておきたい。 私はその発言がなされた場に居合わせたわけではなく、ここで接しているのは、あくまで文脈を失った断片情報である。 したがって、以下は発言全体の精密な再現に基づく批評ではなく、現在流通している表現に対する限定的な応答にすぎないため、

梁 世柱
4月5日


オルタナティヴ・サンジョヴェーゼの行方
トスカーナ州の誇りであるサンジョヴェーゼ。そしてそのサンジョヴェーゼを代表する産地として、常に名が挙がるのは、Chianti Classico、Brunello di Montalcino、Vino Nobile di Montepulcianoの「三大産地」だ。 正直なところ、現時点では、その三大産地全てで、まだまだリーズナブルな価格帯と高品質が両立したワインが手に入る余地が残されているため、わざわざもっとニッチなワインを求める必要性が薄いとは感じている。 しかし、少しずつ状況に変化が出てきている、という認識はもっておいた方が良いだろう。 Chianti Classicoは、最上位格付けであるGran Selezioneの登場からしばらく経ち、高級路線への切り替え作戦が、いよいよ効いてきた感じがある。 Brunello di Montalcinoは元々高価だったが、Rosso di Montalcinoもカジュアルワインの価格帯を飛び出し始めた。

SommeTimes
3月15日


思い込みは誤解の始まり
特定の情報が切り抜かれて、「無条件高品質にする魔法」のように扱われることが、ワインの世界ではしばしば起こる。 例えば、新しい小樽の使用。 正しい育成が可能な範囲内で酸素供給を最大化させたついでに、強めの樽味が引っ付いてくる手法だが、新樽比率を100%までもっていくことが、高品質とイコールのような文脈で語られるようになったのは、フランス・ブルゴーニュ地方において、特級畑ワインに新樽が100%用いられるケースが多かったからだろう。 実際には、それだけの「重い樽使用」に耐えられる力が葡萄そのものに無い場合や、酸化に弱い傾向のある品種だったりすると、新しい小樽100%などと言うのは、むしろ調和を破壊するマイナス効果になってしまう。 葡萄畑においても、このような誤解がなかなかに多い。

梁 世柱
3月9日
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