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ノンアルに問う
ノンアルコールワインという言葉を、ずいぶん普通に見かけるようになった。 酒を飲まない人、飲めない人、今日は飲みたくない人にも、食卓で同じワイングラスを持つ選択肢が用意される。 ノンアルで通さねばならない事情のある人が、理不尽な疎外感を感じずに済む。 これは、非常に良いことだと思う。 酒を飲まないからといって、烏龍茶か水の二択を迫られなくなることに異論は全くない。 だから私は、ノンアルコールワインを一方的に偽物扱いする気にはなれない。 そもそも、現在ノンアルコールワインと呼ばれているものの代表的な製法は、一度きちんとワインを造り、その後アルコールを取り除くというものだ。 つまり、生まれからして偽物、というわけではない。 少なくとも一度は、本当にワインだったのだから、それらを単純に「葡萄ジュース」と片づけるのも、確かに正確ではない。 ただ、それでも私はノンアルコールワインという存在に、どうにも拭えない退屈さを感じる。 理由は単純だ。 発想が、最初から代替品だからである。

梁 世柱
4 日前


A Place for Rosé (期間限定特別無料公開)
「日本では、ロゼワインが定着しない。」 「今年こそは、ロゼワインブームがくる。」 もう何年、この言葉を聞いてきただろう。 春になると、ワイン業界は思い出したようにロゼを売り始める。 桜が咲き始める。 そうだ、ロゼはピンク色だ。 よし、合わせよう。 発想としては、小学校低学年の色合わせと大差ない。 売り場には桜の写真が並び、SNSでは花見の風景にロゼのボトルが紛れ込む。 「桜色のワインで乾杯を」と一斉にプロモーションが展開される。 そして桜が散る。 ロゼも消える。 桜の開花から散るまで、せいぜい数週間。 その短い期間へロゼの需要を押し込み、自分たちの手で「期間限定商品」に仕立て上げたあと、 「日本ではロゼがなかなか定着しませんね」などと言っている。 これでは、そもそも定着させる気があるのか疑いたくなる。 もちろん、花見でロゼを飲むこと自体には何の問題もない。 満開に咲いた桜の樹の下で、良く冷えたロゼを開ければ、色彩的にも気分的にもよく似合う。 ただ、それを主な販売理由にした瞬間から、いろいろとおかしくなる。 国、産地、品種、テロワール、歴史、造り手

梁 世柱
8月12日


OIV登録の、その先
今回、竜眼が晴れてOIV(国際ブドウ・ワイン機構)の品種リストに登録された。 その背景には、多大な努力を重ねてきた人々がいることを、私は理解している。 栽培家、醸造家、ワイナリー、そして協会。 そこには、長い時間をかけてでも前へ進めようとする忍耐と、この葡萄の名をなんとしてでも日本の外へ届けたいという願いがあり、簡単には数字に置き換えられない多くの想いが重なっている。 だから最初に、はっきり書いておきたい。 私は、その努力を非難するつもりはない。 OIV登録という出来事を嘲笑するような意図も一切ない。 むしろ、一つの品種を国際的な舞台へ押し上げるために必要だった仕事には、十分な敬意を払っている。 そのうえで、少しだけ温度を下げて考えてみたい。 OIVに登録されることは、その葡萄に何をもたらすのか。 そして、何をもたらさないのか。 祝うことと、意味を検証することは両立する。 このエッセイで確かめたいのは、その実寸だ。

梁 世柱
8月5日


権威があなたを裏切った日-ミシュラン・グレープ-
Michelin Guideが、ブルゴーニュの生産者に対する新たな格付けを発表した。 案の定、発表直後から議論が噴出した。 反応を、少し乱暴にまとめてしまえば、こんなところだ。 「あのドメーヌが、この位置なのはおかしい。」 「昔から偉大とされてきた生産者が、なぜ名前も知らないドメーヌより下なのか。」 「こんな格付けは信用できない。ミシュランも地に落ちた。」 一方で、Domaine Arnoux-Lachauxは、少し違う角度から異議を唱えた。 近年、ミシュランを受け入れず、プレスにもワインを提示していないにもかかわらず、現在のドメーヌを何に基づいて評価したのか。 順位ではなく、評価へ至るプロセスを問い、掲載の削除を求めた。 この二つは、同じ反論ではない。 一方は、プロセスへの問いである。 もう一方は、自分の記憶と違う、という不満だ。

梁 世柱
7月15日


難しい言葉の甘い香り
ワイン業界は、なぜこんなにも難しい言葉を愛してしまうのか。 ミネラル。テンション。エネルギー。 透明感。躍動感。垂直性。 そしてテロワール。 もちろん、それらの言葉がすべて無意味だと言いたいわけではない。 むしろ、私はその多くを日常的に使っている。 ミネラルという言葉に助けられたことは何度もあるし、テンションという一語でしか掴めない質感もある。 エネルギーという表現でなければ伝えきれない、液体の中の妙な動きも確かに存在する。 そして、テロワールは幻想ではなく、現実に作用しているものだと信じている。 だからこれは、外側から石を投げるための文章ではなく、かなり内側にいる人間としての、自戒である。 問題は、難しい言葉そのものではない。 本当の問題は、その言葉が誰に届くのかを、こちらが考えなくなった瞬間から始まる。

梁 世柱
7月9日


親愛なる純米酒愛好家へ
日本酒の世界には、純米酒以外を認めない人々がいる。 皮肉を込めて、あえて純米酒原理主義者と呼ぼう。 純米酒が好きだというだけなら、何の問題もない。 米と米麹と水だけで造られた酒の「純粋さ」に魅力を感じる。 醸造アルコールを使った酒よりも、純米酒の旨味、ふくらみ、やさしさを好む。 その気持ちは十分すぎるほど理解している。 そもそも、酒の好みは自由だ。 純米酒だけを飲む自由もある。 純米酒だけを扱う店があってもいい。 純米酒に造り手の思想を見出し、そこに深く共感する飲み手がいてもいい。 私が問題視しているのは、そこではない。 問題は、純米酒への嗜好が、いつの間にか他の酒を裁くための木槌に変わることだ。

梁 世柱
7月2日


水を差すジャーナリズム
どんなワインを造っても、それは造り手の自由。 どんなワインを好きだと言っても、それは飲み手の自由。 どんなワインにこだわって販売しても、それは売り手の自由。 その通りだ。 まったく、その通りだと思う。 ワインは、解答の用意された試験ではなく、誰かの好みを裁判所に引きずり出すような飲み物でもない。 それぞれがもつ「選択の自由」に外側から手を突っ込み、「これは正しい」「これは間違っている」と乱暴に決めつけることは、たしかに傲慢だ。 だが、問題はその先にある。 自由は、否定されるべきものではない。 しかし、自由を印籠のように掲げれば、すべての問いから逃れられるわけでもない。

梁 世柱
6月25日


対話:ナチュラルワインと現場のリスク
ヨーロッパのある国で、二十年以上ナチュラルワインを専門に扱ってきたというワインプロフェッショナルに出会った。 綺麗に整えられた、長く豊かな顎髭、細身の長身、そして、屈託のない笑顔。 その人には、長い時間をワインと共に過ごしてきた者だけが持つ、穏やかな確信があった。 知識を誇示するのではなく、経験が身体の奥で熟成し、必要なときだけ言葉になる。 そんな空気感のある人だった。 他愛のない自己紹介を済ませたあと、話題はやがてナチュラルワインにおける欠陥へ辿り着いた。 様々な欠陥の話が出たが、議論の中心になったのはネズミ臭だった。

梁 世柱
6月11日


樽風味は時代遅れなのか
新樽の風味を濃厚に効かせたワインが、少しずつ時代の中心から遠ざかっている。 かつては紛れもない高級感の証だった。 ヴァニラ、トースト、チョコレート、甘いスパイス。 熟した果実にそれらを重ね、滑らかに溶かし込み、隙のない一体感へ仕上げることは、ひとつの完成された美の形だった。 だが、時の流れと共に、飲み手の感覚は変わる。 透明感。 軽やかさ。 テロワールの声。 飲み疲れしない優しさ。 そうした言葉が価値を持ち始めると、かつての豪華さは、ときに受容しがたい重さへ変わる。 では、樽そのものが時代遅れになったのか。 そうではない。 ここで興味深い証明として立ち上がるのが、古典的なリオハである。

梁 世柱
6月3日


ナチュラルワイン:その自由は、どこで育ったか(期間限定無料公開)
ナチュラルワインを語るとき、私たちはしばしば、クラシックワインとは別の言語を使おうとする。 エネルギーがある。 生命力がある。 揺らぎがある。 身体に馴染む。 整えすぎたワインにはない、剥き出しの説得力がある。 たしかに、そういうナチュラルワインは数多く存在する。 グラスに注いだ瞬間、産地名、格付け、熟成ポテンシャルといった言葉を一度脇へ押しやり、飲み手の感覚へ直接触れてくるワイン。 果実、酸、タンニン、アルコールといった要素へ分解される前に、一つの動きとして身体にするりと入ってくるワイン。 ナチュラルワインがワインの世界にもたらした功績の一つは、この種の感受性を、無視できないものとして差し出したことだと思う。 だが、新しい言葉が必要だったことと、新しい言葉だけでワインの価値を説明できることは違う。 ここを取り違えると、ナチュラルワインを取り巻く話は急に危うさを帯びてくる。 クラシックワインの世界では、品質はいくつかの基本条件と結びつけて考えられてきた。 どの畑か。 その畑は、本当に優れているのか。 そこに植えられた葡萄は、その土地に適しているの

梁 世柱
5月21日


改善という静かな破壊
レトロな町中華は、完璧だから愛されているわけではない。 むしろ、完璧ではないことを、客の側もどこかで引き受けている。 少し色褪せた食品サンプル。 油の染みたカウンター。 貼り紙の端がめくれた壁。 炒飯は日によってわずかに揺れ、スープには最新の味覚設計ではなく、何十年も同じ寸胴の前に立ってきた時間が沈んでいる。 そこに点数をつけることはできる。 だが、それを前面に出した瞬間、ラーメンの湯気より先に、こちらの無粋さが立ちのぼるだろう。 評価が存在しないのではない。 ただ、評価を露出させすぎないという、ささやかで、どこか慎ましい作法があるのだ。 「もっと良くなってほしい」よりも、「どうかこのままでいてほしい」。 改善よりも保存。 最適化よりも郷愁。 そこでは、変わらないことが怠慢ではなく、個性の最後の防波堤になる。

梁 世柱
5月13日


「飲みやすい」は褒め言葉か
ワインを前にして、私たちはしばしば「飲みやすい」と言う。 悪い言葉ではない。 むしろ、実によくできた言葉である。 角がなく、誰も傷つけず、場を乱さない。 ソムリエはうなずき、同席者は安心し、ワインはとりあえず無事に食卓を通過する。 だが、便利すぎる言葉は、たいてい多くのディテールを削り落としたあとに残る。

梁 世柱
5月6日


都合の良い審美眼
Prieuré Rochと、沈黙するクラシックワイン愛好家 プリューレ・ロックは、私にとって敬愛すべき造り手である。 そして、私が長年、プリューレ・ロックを取り巻く歓喜に抱いてきた違和感は、ワイン好きの社交における小さな禁忌でもある。 テロワールの声を的確に捉えるそのワインには、自然派という便利な分類には収まりきらない精度がある。 野性はあるが、粗暴ではない。 揺らぎはあるが、無秩序ではない。 そこには思想の押し売りではなく、経験によって支えられた自由がある。 だから、ここで問いたいのはプリューレ・ロックの品質ではない。 このワインは、十分過ぎるほど美しい。 問題は、その美しさを前にした飲み手の態度である。

梁 世柱
5月1日
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