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改善という静かな破壊
レトロな町中華は、完璧だから愛されているわけではない。 むしろ、完璧ではないことを、客の側もどこかで引き受けている。 少し色褪せた食品サンプル。 油の染みたカウンター。 貼り紙の端がめくれた壁。 炒飯は日によってわずかに揺れ、スープには最新の味覚設計ではなく、何十年も同じ寸胴の前に立ってきた時間が沈んでいる。 そこに点数をつけることはできる。 だが、それを前面に出した瞬間、ラーメンの湯気より先に、こちらの無粋さが立ちのぼるだろう。 評価が存在しないのではない。 ただ、評価を露出させすぎないという、ささやかで、どこか慎ましい作法があるのだ。 「もっと良くなってほしい」よりも、「どうかこのままでいてほしい」。 改善よりも保存。 最適化よりも郷愁。 そこでは、変わらないことが怠慢ではなく、個性の最後の防波堤になる。

梁 世柱
3 日前


「飲みやすい」は褒め言葉か
ワインを前にして、私たちはしばしば「飲みやすい」と言う。 悪い言葉ではない。 むしろ、実によくできた言葉である。 角がなく、誰も傷つけず、場を乱さない。 ソムリエはうなずき、同席者は安心し、ワインはとりあえず無事に食卓を通過する。 だが、便利すぎる言葉は、たいてい多くのディテールを削り落としたあとに残る。

梁 世柱
5月6日


都合の良い審美眼
Prieuré Rochと、沈黙するクラシックワイン愛好家 プリューレ・ロックは、私にとって敬愛すべき造り手である。 そして、私が長年、プリューレ・ロックを取り巻く歓喜に抱いてきた違和感は、ワイン好きの社交における小さな禁忌でもある。 テロワールの声を的確に捉えるそのワインには、自然派という便利な分類には収まりきらない精度がある。 野性はあるが、粗暴ではない。 揺らぎはあるが、無秩序ではない。 そこには思想の押し売りではなく、経験によって支えられた自由がある。 だから、ここで問いたいのはプリューレ・ロックの品質ではない。 このワインは、十分過ぎるほど美しい。 問題は、その美しさを前にした飲み手の態度である。

梁 世柱
5月1日


点数はワインを救ったのか、殺したのか
8000年を超える歴史を誇るワインの世界には、ときどき妙に現代的な悲喜劇が起きる。 古い権威に疑念をぶつけるために持ち込まれた仕組みが、やがてそれ自身、より効率的で、より流通に適し、より疑われにくい新たな権威へと変貌する。 ロバート・パーカーJr.と100点満点法がもたらした変化も、まさにそういう種類の出来事だった。 まず認めておくべきことはある。 点数法は、歴史的名声や伝統的権威を完全に打ち砕いたわけではない。 名門は名門のままであり、偉大な畑は依然として偉大なままだった。 だが、それまであまりにも長く効きすぎていた「名門だから無条件偉大」という空気に対して、点数法は驚くほど無遠慮だった。 由緒があろうが格付けがあろうが、出来が悪ければ低く評価する。 逆に、新顔であっても良ければ高く評価する。 その忖度のなさは、旧来の権威に安住を許さなかった。 その意味において、点数はたしかにワイン市場を救った。 ワインは長いあいだ、味わいを楽しむよりずっと前の段階で、教養を要求する商品だった。 産地、格付け、生産者、葡萄品種、ヴィンテージの評判。店頭に並ぶボ

梁 世柱
4月24日


ナチュラルワイン 開かれた問いと責任の所在 (無料公開)
SNSで、とある飲食店の店主が執筆したと思われるエッセイを目にした。理路整然とした実に素晴らしい内容で、共感できる部分も非常に多くあった。 しかし、情緒、感情、対話を重視するあまり、少々危うい理論の飛躍に至っていると感じる部分も少なからず見受けられた。 エッセイの根幹部分は大変素晴らしい主張であるため、ジャーナリストとして真正面から然るべき異議を唱えつつ、理が弱いと感じる部分を補完していこうと思う。 当該エッセイの内容を、 「前提」「主張」「結論」 の三層に分けて要約すると、以下の通りとなる。 前提 ワインは、人間だけでなく、土壌中の微生物、酵母、気候、セラー環境など、多数の非人間的要因との相互作用のなかで生成されるにもかかわらず、一般的な品質論では「人間は技術によってワインを制御できるはずだ」という前提が置かれやすい。 その制御とは、培養酵母やSO₂などを通じて、人間以外のアクターの働きを抑制・排除することでもある。 また、香りやフレーバーの知覚は、遺伝、文化、文脈、期待、体調、情動などに強く条件づけられており、万人にとって一義的・客観的ではな

梁 世柱
4月14日


なぜ学ぶのか
ワインのことを「教える立場」になってから、随分と時間が経ったが、この間に人々の学びを観察してきた結果は、なんとも残酷なものだったのかもしれない。 ワインを学ぼうとしている人々の「学びたいワイン」が、ブルゴーニュ、ボルドー、シャンパーニュ、カリフォルニアなどの有名人気産地に、極端なほど集中してしまっているのである。 それはそうだろう、と多くの人は思うだろう。 きっとそうだろう、と私も思ってはいた。 だが、実態として目の当たりにすると、それなりにショックは受けるものだ。 私が情熱を注いでいる数多くのワイン産地に対して、大多数の人々は一欠片の興味すら抱いてないのだから。

梁 世柱
4月10日


SNSを荒らした、自然派を「装った」ワインとは(特別無料公開)
突然、「日本ワイン 自然派」という語をめぐって、SNSがざわつき始めた。 何をいまさら、と思いながら経緯を追っていくと、日本のワイン産業に対して強大な影響力をもつとある人物が、「日本の自然派を装ったワインの98%は、飲めたものではない。あのようなものが、初めてワインを飲む人の口に渡ったら大変だ」という趣旨の発言をされたらしい。 この種の騒ぎではいつも、対象の輪郭も、言葉の射程も、文脈も十分に確かめられないうちに、断定だけが一人で歩き始める。 今回もまた、その見慣れた光景が、少しばかり華やかに再演されているように見える。 「自然派を装った日本ワイン」なるものを一括して断罪する声は、案の定、勢いよく増殖している。 SNSという劇場は相変わらず、考えるより先に合唱することにかけて、実に勤勉だ。 もっとも、ひとつ留保しておきたい。 私はその発言がなされた場に居合わせたわけではなく、ここで接しているのは、あくまで文脈を失った断片情報である。 したがって、以下は発言全体の精密な再現に基づく批評ではなく、現在流通している表現に対する限定的な応答にすぎないため、

梁 世柱
4月5日


オルタナティヴ・サンジョヴェーゼの行方
トスカーナ州の誇りであるサンジョヴェーゼ。そしてそのサンジョヴェーゼを代表する産地として、常に名が挙がるのは、Chianti Classico、Brunello di Montalcino、Vino Nobile di Montepulcianoの「三大産地」だ。 正直なところ、現時点では、その三大産地全てで、まだまだリーズナブルな価格帯と高品質が両立したワインが手に入る余地が残されているため、わざわざもっとニッチなワインを求める必要性が薄いとは感じている。 しかし、少しずつ状況に変化が出てきている、という認識はもっておいた方が良いだろう。 Chianti Classicoは、最上位格付けであるGran Selezioneの登場からしばらく経ち、高級路線への切り替え作戦が、いよいよ効いてきた感じがある。 Brunello di Montalcinoは元々高価だったが、Rosso di Montalcinoもカジュアルワインの価格帯を飛び出し始めた。

SommeTimes
3月15日


思い込みは誤解の始まり
特定の情報が切り抜かれて、「無条件高品質にする魔法」のように扱われることが、ワインの世界ではしばしば起こる。 例えば、新しい小樽の使用。 正しい育成が可能な範囲内で酸素供給を最大化させたついでに、強めの樽味が引っ付いてくる手法だが、新樽比率を100%までもっていくことが、高品質とイコールのような文脈で語られるようになったのは、フランス・ブルゴーニュ地方において、特級畑ワインに新樽が100%用いられるケースが多かったからだろう。 実際には、それだけの「重い樽使用」に耐えられる力が葡萄そのものに無い場合や、酸化に弱い傾向のある品種だったりすると、新しい小樽100%などと言うのは、むしろ調和を破壊するマイナス効果になってしまう。 葡萄畑においても、このような誤解がなかなかに多い。

梁 世柱
3月9日


アルコール濃度という目安の意味
葡萄に含まれる糖分が、サッカロミセス・セレヴィシエという微生物によって、エタノール(アルコール)へと姿を変える。 自然のいたずらか、神の設計か。 人類が形作ってきた文明の歴史は、常に「アルコール発酵」と共にあった。 そんな「アルコール」という存在は、ワインを分析的に見る際には、「重さ」の指標となり続けてきた。 過去形、だ。 しかし、その背景を正しく理解しておくことは、現在の変化を知る上で、極めて重要だ。

梁 世柱
3月1日


格安ワインのアドヴァンテージ
神はディテールに宿る。 あらゆるディテールに徹底的にこだわり、そのこだわりが完璧な精度で行き届く量のワインしか造らない。 少量生産=高品質、という方程式自体は、基本的には間違っていない。 実際に、世界最高峰と謳われるワインには、この方程式通りに造られているワインが非常に多い。 一方で、シャンパーニュのプレスティージ・キュヴェや、ボルドーのトップ・シャトーのように、かなりの生産量と極まった高品質を両立させている例もある。 つまり、方程式自体は正しいと言えるが、唯一の条件ではない、ということだ。 そして、少量生産だが、品質的に優れているとは言えないワインも、残念ながらかなり存在している。 この複雑に見える因果関係の中で、どのようにワインの価格は決められていくのだろうか。 ワインの価格は、基本的にコスト+市場原理で決まる。

梁 世柱
2月7日


終わりなきワイングラス沼に刺す、一筋の光
ワイングラス、というのは実に奥が深い酒器である。 世界中の酒器を検証したわけではないが、ヴァリエーションという意味においては、あらゆる酒器の中で、最も複雑怪奇なカテゴリーとなっていることは、間違いなさそうだ。 それほどのヴァリエーションが存在していることに、果たして意味はあるのだろうか? 本当にグラスによって大きく味わいは変わるのだろうか? 答えはYESである。

梁 世柱
2月1日


クラシックとナチュラルの境界線
かつてワイン市場では、クラシックvsナチュラルという内戦が勃発していた。 あえて、過去形にしているのだが、今回のテーマはまさにその点にある。 そもそも嗜好品であるワインは、飲む本人が好きならそれで良い、というのがど真ん中の正論なはずだが、自称知識人の中には、どうしても他者の趣味嗜好を攻撃したい人が多いようだ。 不毛なマウントポジションの奪いあい。そんなくだらないことを、どうかこの美しい趣味の世界に持ち込まないでいただきたいものだ。 さて、ひと昔前の対立構造を、少し丁寧に紐解いてみよう。

梁 世柱
1月23日


資格試験の意味 なぜ挑戦すべきなのか。(無料公開)
2025年は、ソムリエ・ワインエキスパート呼称資格認定試験(以下、省略して「資格試験」と表記)の試験対策講座を、主任講師として務めるという新たなチャレンジの一年となった。 実は、過去に試験対策講座担当へのオファーは少なからずあったのだが、頑なに断ってきた。 理由は明白だった。 試験への対策という単純な意味であれば、(講師側に)特殊な領域の知識や、より現実的な見解などは必要ではなく、要点さえ押さえれば、ワインプロフェッショナルならできる人はたくさんいる。ワインの深部を探究することに情熱を燃やしに燃やしてきた私にとって、広く浅い世界を担当することに、限られた時間的リソースを割く意味性がなかなか見出せなかったのだ。 しかし、その考えは徐々に変化してきていた。 もちろん、そこにも理由がある。 資格試験を突破した人々から、「資格試験のせいで、ワインへの情熱を失ってしまった。」という声をあまりにも多く、頻繁に耳にしたからだ。 その結果だけを見るなら、まさに本末転倒としか言いようがない。 何が足りなかったのか、自分なら何ができたかも知れないのか。...

梁 世柱
1月10日


無知を騙す分かりやすさの罪
※注:日本の政治に絡んだ言及がありますが、本題はそちらではありませんので、あらかじめご理解いただけますと幸いです。 参政党なる政党には、さしたる興味をもっていなかったのだが、先日の参院選の結果を見て、少し調べてみることにした。

梁 世柱
2025年7月29日


リスキー過ぎる生ワイン
ジャーナリストとして、深く首を傾げるワインと出会った時、そのことに言及すべきかどうかは、実に悩ましい問題だ。 失敗は誰にでもある。 どれだけ熟達した造り手でも、人間である以上は、時に間違った選択をしてしまうことも、当然あるのだ。 そう思っているからこそ、私は基本的には、静観という立場を取るようにしているのだが、事態の重さ次第では、やはり書くべきではないか、と思い立つこともある。 今回は、そのケースに該当すると思っていただきたい。

梁 世柱
2025年7月19日


クラシックの定義と個性の行方
最近、クラシックとされるワインに対して考えを巡らせることが増えた。 そもそもクラシックの定義とはなんだろうか? ナチュラルワインに法的な定義が無いように、クラシックワインにもまた法的な定義は存在しない。 だが一般的には、その産地と品種の個性として広く認知されたスタイル、を指していると考えて差し支えないだろう。

梁 世柱
2025年7月1日
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