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洗練されたナチュラルワインの是非

イタリア行脚の後半は、一人でイタリアとスロベニアの国境沿い(歴史的に非常に深い理由があるが、文字通り一つの町が2つの国に分断されている)にあるゴリツィアへ来ている。

 

一人旅、特にど田舎の産地では、(筆者は運転免許をもっていないので)移動面で大変な苦労を伴うが、造り手と葡萄畑を歩いたり、セラーで大量のワインをテイスティングしながら数時間彼らとひたすら話し込めるのは、その不便さを補って余りある利点だ。

 

ナチュラル・ワインに造詣の深い読者であればご存知かとは思うが、ここゴリツィア周辺は、オレンジワインの復興が始まった地であり、イタリアにおける最初期のナチュラルワインムーヴメントが興った地である。

 

Gravner、Radikon、La Castellada、Le Due Terre、Vodopivec、Kante、Zidarichなど、この地にはイタリアを代表するレジェンド級のナチュラル派が居並ぶ。

 

そんなゴリツィア周辺で、今回訪問先に選んだのは、一軒を除いて、20~30代の若手が活躍するワイナリー。

 

ここで最初の「変化」が起きてから、もう30年近い時が流れた。

 

世代が巡り、また新たな「変化」が生じているのは把握していたが、それを自身の目で見て、葡萄畑の土に触れ、ワインを味わい、若者たちの話に耳を傾ける必要があると常々感じてきた。

 

そして、その願いが今回ようやく叶った。

 

詳しくは特集記事でレポートしていくが、ここゴリツィア周辺でも世界中の新世代ナチュラル派に共通する特徴が見受けられた。

 

まずは、ワインが徹底してクリーンであること。

 

訪問したワイナリーでは欠陥的特徴に関してかなり深い議論を繰り返したが、どのワイナリーも、特にネズミ臭(通称、マメ)には非常にセンシティブになっており、必要極最小限だが適切な亜硫酸添加を欠かしていない。

 

ただし、今回あえて訪問を見送ったとあるレジェンド級のワイナリーでは、新世代が極めて不安定なワインを大量にリリースしてしまっていることを把握しているが、事情(おそらく正しいと思われる予測はついている)を知らずに言及するとただの批判になってしまうため、割愛しておこうと思う。

 

 

次に、ワインがしっかりとテロワールを表現していること。

 

明らかにクリーンになったワインメイキングにより、これまでははっきりとその姿を確認することが難しかったゴリツィア周辺の様々なテロワールが、鮮明に表現されるようになった。

 

低地の砂や粘土が多い土壌のエリアではそういう味わいになるし、山に近い丘陵地で岩石が多く土壌に含まれるエリアのワインもまた、そういう味わいになっている。

 

 

最後のポイントもまた、世界的に共通している部分だ。

 

そう、「クリーンだからナチュラルワインとして売りにくい」という不可思議な現象が発生している市場の存在に、彼らは大いに悩んでいる。

 

彼らがその名を出すことは一度もなかったが、日本はそのような市場の最たる例である。

 

彼らは先達の成功と失敗の両方から学び、より精密な畑仕事とワインメイキングによって、欠陥的特徴を大幅に減少させ、テロワールを浮かび上がらせるためのあらゆる努力と研鑽を行なってきた。

 

しかし、彼らのワインから、強烈な除光液のような香りがしたり、焼けたゴムのような香りがしたり、馬糞のような汚臭がしたり、腐った牛乳のような香りがしたりしていないが故に、なかなか売れない市場があるというのだ。

 

なんと、嘆かわしいことだろうか。

 

エクストリームなナチュラルワインにも特有の魅力があることは十分に理解しているが、そういったワイルドナチュラルはあくまでも、ナチュラルワインの一部であって、全てでは決してない。

 

そのことを、プロフェッショナルと消費者の両方が理解するのに、いったいどれだけ時間がかかるのだろうかと思うと、私も頭が痛くなる。

 

レジェンド級のワインで入手困難だからといって、強烈な欠陥が出ていても、崇め奉るように喜んで飲む「ラベル愛好家」には、ほとほとうんざりしている。

 

ナチュラルワインの先進市場と称される日本は、このままではいつの間にか後進となるだろう。

 

世界の動きも、進化も、実にスピーディーだ。

 

固定概念を壊すこと、新しい価値観を理解すること、盲目的に拒絶しないこと。

 

我々に課された課題は、少なくない。

 



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