2ヶ月連続で同じ国を訪れる、というのは初めての経験だった。
Dãoの日差しと、Bairradaの海風がまだ肌の記憶に残ったまま、再びポルトに降り立った。
今回の目的地はVinho Verdeだ。
Vinho Verdeは、日本では最も知られているポルトガルの産地であると同時に、最も理解されていない地でもある。
長年に渡って安価なワインを超大量生産し続けた産地は、どこもかしこも同じような問題を抱えているが、Vinho Verdeが急ピッチで繰り返してきたアップデートに、世間が全く追いついていない。
まるで、現地では最新のWindows 11を搭載しているのに、日本ではWindows 98のままで止まっているかのようにすら思える。
リアルタイムのVinho Verdeは、ポルトガル最高峰の白ワインが生まれる、紛れもない銘醸地なのだが、今でも過小評価のどん底から抜け出す気配すらない。
だからこそ、責任をもってお伝えしようと思う。
この特集記事が、Vinho Verdeが見直されるきっかけになることを切に願いながら。
古くて新しい銘醸地
Vinho Verdeというワイン産地は、古くは1世紀、全37巻にも及ぶ百科全書「博物誌」を著した古代ローマの博物学者、大プリニウス(ガイウス・プリニウス・セクンドゥス)、及び同時代を生きた高名な哲学者、小セネカ(ルキウス・アンナエウス・セネカ)によって言及されている。
その後12世紀頃までは、極小規模なワイン産地に留まり続けてきたが、ミーニョ地方からドウロ地方にかけての経済域が大きく発展し始めたことによって、ワイン産業も急速に成長していった。
確定的な証拠として残っている記録としては、(1788年の)イギリスのワイン商ジョン・クロフトによるものが最古となるが、12世紀にはすでに少量ながらイギリスやドイツへの輸出が始まっていた可能性が高い(ミーニョ地方北部のモンサオンとヴィアナ・ド・カステロはロンドンから最も近いポルトガルの港だった。)とされている。
しかし、薄く酸の強いVinho Verdeがロンドンの貴族たちに好まれることはなく、主な輸入先はすぐにポルトとドウロに取って代わられた。
16世紀に入ると、中南米から持ち帰られたトウモロコシが大流行し、時の権力者はその生産量を最大化するために、農家に対する圧力を強めた。