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復活した銘醸地 <ポルトガル特集:ダオン前編>

初めての国を訪れる時は、いつも不思議な高揚感に包まれる。


雲のように掴みどころがないのに、カーテンの隙間から差し込む光のように、いつの間にか一点へと集約していく、どうにもチグハグな感情。


約1日かけた長旅を終え、私はついに降り立った。


ヨーロッパ最後の、ヴェールに覆われたワイン王国、ポルトガルに。


深夜にポルト空港へと到着し、慌ただしく迎えの車に乗り込む。


想像していたより、遥かに綺麗に舗装された、滑らかな道が続く。


長旅による眠気と疲れ、体の節々を襲う鈍痛、周囲を覆う暗闇、車内を流れるポルトガル・ミュージック。


初めて目にするはずの風景を楽しむこともなく、車は淡々と走り続けた。


単調で抑揚のない時間が、私の緊張をなだめていく。


1時間半後、ようやく最初の目的地に到着した。


かつてローマ街道の要所として栄えた古都Viseu(ヴィゼウ)、そして、ポルトガル屈指の銘醸地として名高い、Dão(ダオン)だ。


注:日本ではDão=ダンと表記されるケースが多いが、現地の発音を重視し、SommeTimesでは一貫してダオンと表記する。




南のブルゴーニュ

ポルトガルが誇る歴史的銘醸地ダオンは、ヨーロッパにおけるその他多くのワイン産地と同様に、フェニキア人の海上交易とローマ人入植者たちによって産声を上げた。


ローマ帝国が衰退し、イスラム系のムーア人による支配下に置かれてもワイン造りは途絶えず、中世になると、シスト派修道院の聖職者たちが大いにワイン造りの技術を高め、現在のダオンにも繋がる礎を築いた。


ダオンが(ブルゴーニュと同じ)シスト派の手によって真に発展した産地であることは、この地がかつて、「南のブルゴーニュ」と称されていたこととも関係している可能性は、十分にあるだろう。


また、19世紀には、ポルトガルの大貴族であり、当代随一の葡萄栽培家と称されたJoão de Sande de Sacadura Botte Côrte-Realがダオンのテロワールを研究し、ワイン造りのスタンダードをもう一段引き上げたとされる。


ボルドーや同国内の銘醸地Douro(ドウロ)をフィロキセラが襲った際(ダオンにフィロキセラが到来したのはドウロよりも12年遅い1881年)には、各地の不足分を補うために、ダオン産のトゥリガ・ナシオナル(当時、ダオンに植えられた葡萄の約90%が同品種だったとされる)が大量に輸出され、ダオンは文字通りの最盛期を謳歌した。


やがてダオンもまたフィロキセラ禍に苛まれたが、シスト派修道院と大貴族の功績によってすでに高い名声を得ていたため、1908年にダオンは、酒精強化をしていないワインの産地としてはポルトガルで初の原産地認定を受けることとなる。


しかし、その栄華は儚くも短命に終わってしまう


1932年にポルトガルの首相となったアントニオ・サラザールが、その翌年からヨーロッパ最長の独裁政権とされる「エスタド・ノヴォ」体制を確立していくと、1940年代以降にはダオンを「ポルトガル国民のためのワイン産地」とする目的(究極的に、サラザールの自己満足的指針だったと考えられる)の元、全てのワイン製造及び販売の許可を、協同組合にのみ(例外は後述)与えた。

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