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イタリアで最も偉大な産地 <ピエモンテ・ネッビオーロ特集:第三章>

バレバレスコに想いを馳せると、いつもやるせない気持ちになる。偉大なるバローロの栄ある光は、バルバレスコに深い影を落とし続けてきたからだ。そう、バルバレスコに与えられた地位は、永遠のNO.2。ワインファンに「イタリアで最も偉大な赤ワインは」と尋ねると、おそらく90%程度はバローロと回答するだろう。残りの9%はトスカーナ州のブルネッロ・ディ・モンタルチーノ、そして1%がバルバレスコといったとこだろうか。実は、筆者はこの1%に属している。私はこのことを隠すことも、ましてや恥じることも一切ない。90%の超多数派が私をなんと罵ろうとも、私にとってイタリア最高の赤ワインは、バルバレスコなのだ。


バローロとバルバレスコの違いは、ブルゴーニュに当てはめるならシャンベルタンとミュジニーの違い、と表現しても差し支えないだろう。不思議に思わないだろうか。ブルゴーニュ・ファンなら、意見が真っ二つに割れるような「違い」であるにも関わらず、なぜかバローロが圧倒的な優勢を保ち続けてきたことを。その本質は結局のところ、「無知」にある。我々の多くは、ブルゴーニュよりも遥かに低い理解しか、バローロとバルバレスコを内包するランゲの地に対してもち合わせていない。知らないなら、より有名な方に大多数が流されるのは必然だ。


幸運なことに、筆者は相当な数の、そして様々な状態のバローロ、バルバレスコと真摯に向き合う機会に恵まれてきた。そして、私が人生の「バローロ・バルバレスコ体験」の中からトップ10を選出するなら、7つはバルバレスコが占める。それどころか、トップ3は間違いなく全てバルバレスコだ。


「飲み頃のバローロなら」という反論は、当然出てくるだろう。しかし、筆者は飲み頃のピークに到達できるレヴェルだけで判断していない。ピーク時期の長さ、飲み頃予測の容易さ、飲み頃に至るまでの時間も、判断材料に含めている。一点突破力ではバローロかもしれないが、総合力ではバルバレスコだ。そして何より、リアリストの私にとっては、ワインは飲んで楽しみ、嗜むものであって、棚に飾って眺めるものではないのだ。


バローロが荘厳な王宮の如きワインだとしたら、バルバレスコは雄大な牧歌的神秘性を讃えるワイン


本章では、そんなバルバレスコの真髄に迫っていく。



Barbaresco誕生から現代まで

バルバレスコというワインの名が明確に残っている古い文献はかなり少ない。最古のものは1799年で、オーストリア軍の将校だったデ・メラスが、ワインが入った600Lの樽をバルバレスコの教会に注文したという記録が残っている。バルバレスコの名が刻まれた現存する最古のボトルは1870年製であり、実際のところは、19世紀の終わり頃までは、瓶詰めされたバルバレスコは非常に少なかったと考えられている。


ネッビオーロの名産地として古くから知られてはいたものの、非常に長い間バルバレスコ産の葡萄は、バローロにブレンドされ、バローロの名で販売されていた。バルバレスコのフレッシュでエレガントな特性は、強固になりがちなバローロを和らげるためのパーツとして、重要視されていたのだ。


そんなバルバレスコの長い暗黒時代にやっと光が差したのは、1894年のこと。そして、歴史に名を残す偉大な革命家の名は、ドミツィオ・カヴァッツァである。現在のエミリア=ロマーニャ州にあるモデナで生まれたカヴァッツァは、ミラン大学で栽培学を学んだのち、フランスに渡り、ヴェルサイユとモンペリエでさらに学びを深めた。また同時期に、カヴァッツァはフランスの葡萄畑をフィロキセラとベド病が蹂躙していく様を目撃している。1881年、若干26歳にも関わらずミラン大学とフランス各地で当時最先端のワイン学を吸収していたカヴァッツァは、イタリア農業省が新たに設立したアルバ王立ワイン学校のディレクターに大抜擢された。


そして、カヴァッツァは自らの安住の地として、バローロではなく、バルバレスコを選んだ。1886年にはバルバレスコに最初の葡萄畑を取得し(*1)、 ネッビオーロの栽培を開始したが、バルバレスコの名声を高めるには、より大きな規模で品質改革に取り組み必要があると痛感したカヴァッツァは、1894年、9つの葡萄農家と共に、協同組合であるCantina Sociale di Barbaresco(カンティーナ・ソシアーレ・ディ・バルバレスコ)を設立した。


しかし、この偉大な革命と挑戦は、短命に終わってしまうこととなる。1913年にカヴァッツァが若くして急逝し、息子のルイージが引き継いだが、その2年後には彼も第一次世界大戦のために徴兵されてしまった。戦後の貧困と、多くの若者が戦死したことによる絶望的な人手不足はバルバレスコを直撃し(この時すでに高い名声を得ていたバローロは、バルバレスコほどの危機には陥らなかった)、さらにフィロキセラとベト病が襲来し、1922年から始まったファシスト政権による農地改革(イタリアの食糧自給のために穀物栽培への転換が強引に進められた)によって決定的な追撃を受けたことを機に、Cantina Sociale di Barbarescoは1925年に閉鎖された。そしてその後30年以上もの間、バルバレスコは再び暗黒時代へと突入してしまった。


バルバレスコに再び革命の狼煙があがったのは、1950年代後半から60年代にかけてのこと。第二次バルバレスコ革命の主役となったのは、カヴァッツァの遺志と果たせないままだった夢を引き継いだドン・フィオリーノ・マレンゴ神父が創設した、新たな協同組合Produttori del Barbaresco(プロドゥットーリ・デル・バルバレスコ)、強大な野心を抱えた若き日のAngelo Gaja(アンジェロ・ガヤ)、そしてワインの偉大さは葡萄畑に宿ると頑なに信じたBruno Giacosa(ブルーノ・ジャコーサ)である。


特にProduttori del Barbarescoの果たした役割は極めて重要で、多くの葡萄農家に再び情熱の火を灯しただけでなく、1966年にDOCが初めて制定された際に、バローロ、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ、キアンティと共にバルバレスコが認定される直接的と言っても過言ではないほどの原動力となった。


その後から現在に至るまでの変遷は、基本的にバローロと同じだ。単一畑バルバレスコの出現によって古典的なブレンド派との確執が生まれ、革新派バローロの流行を受けて(最初に新樽のバリックを導入したのはアンジェロ・ガヤだが)一部のバルバレスコは新樽を積極的に導入するようになり、現在は古典派と革新派が共存しつつ、ハイブリッド派も躍動している。


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