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フランスの庭 <ロワール渓谷特集:第一章>

全長1,006km。フランス最長の河川であり、ヨーロッパ全土でも3番目の長さであるロワール河は、色とりどりの恵みを、フランスに、そして世界にもたらしてきた。数々の壮麗なシャトー群は世界中の旅行者を魅了し、アスパラガスやアーティチョークは世界各地のレストランへと届けられる。ヴァランセ、サント・モール、クロタン、セル・シュール・シェールといった、世界に名だたる極上のチーズでも有名だ。そして、「フランスの庭」と称されるロワール渓谷には、広大な「葡萄の庭」が広がっている。約2,000年の歴史を誇るその庭は、まさに楽園。そして楽園に美酒はつきものだ。



歴史

ロワール渓谷におけるワイン造りの歴史に関して、簡潔に触れていこう。


記録上、ワイン造りが始まったのは1世紀の間とされている。古代ローマの政治家であり、自然と芸術に関する歴史的書物である『プリニウスの博物誌』の著者であるガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、その著書(西暦77年発表)の中でロワール河沿いに広がる葡萄畑に関して言及している。


しかし、ロワール渓谷でワイン造りが盛んになり始めたのは、大プリニウスによる言及から約500年後のこと。西暦583年、聖職者であり、歴史家でもあった聖グレゴリウスが発表した著書には、時のアンジュー伯爵とカソリック教会が共同で、サンセールやトゥレーヌの地に葡萄畑を拓いたと記録されている。以降、ロワール渓谷におけるワイン造りは何世紀にも渡って、聖アウグスチノ修道会、聖ベネディクト会という二つの修道会が先導した。当時の修道会は、河川を巧みに使って、ワインを各地に運搬していたとされている。


次の飛躍は、1,154年に訪れた。ノルマンディー公爵、アンジュー伯爵でもあったヘンリー2世が、イングランド王国の国王になり、アンジュー産のワインのみを王宮で供すると定めたのだ。この慣習は、1,272年にヘンリー3世が崩御するまで続いた。


同時期から15世紀頃までにかけて、ワイン造りの主体は徐々に修道会から貴族へと移りつつも、17世紀までは順調に名声を高めていった。


その後は、18世紀末のフランス革命(貴族や修道会が領地を没収された)、19世紀初頭の鉄道網の普及(ロワール河を利用した運搬というアドヴァンテージの消失)、19世紀末のフィロキセラ禍と苦難が続き、フィロキセラ禍以前には、約160,000haもあった葡萄畑は、現在AOPとIGPを合わせても約70,000haに縮小している。


ロワール渓谷に点在する美しいシャトー



原産地呼称制度

日本におけるロワール渓谷産ワインの人気は、驚くほど低い。いや、それ以上に深刻なのは、この偉大な産地に対する理解が、あまりにも浅いことだ。主たる理由は2つ。一つは、明白に流行重視型(ミーハー型)の日本市場において、産地の人気を牽引できるほどのインパクトがある造り手が少ないこと。二つは、ロワール渓谷における原産地呼称制度の複雑さにある。

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