ワインは農産物なのか

葡萄は、その生育年に起こる様々な苦難を乗り越えて実り、造り手たちによって多種多様なアプローチで醸造され、熟成され、ワインとして出荷される。


「ワインは農産物」


使い古された枕詞であるが、今でも本当にそうなのだろうか?


実は、世界中で生産されているワインの大部分(生産量ベースで)が、純粋(もしくはそれに限りなく近い)な農産物であることを放棄してしまっている。いわば、工業製品として造られているとも言い換えることができるものになっているのだ。


葡萄畑においては、そこでどれだけたくさんの化学肥料や農薬を使い、どれだけ不必要なレベルで大量の灌漑を行ったとしても、農業の範疇に収まる。つまり、全てのワインは、葡萄が収穫されるその瞬間までは、農産物なのだ。


「ワイン造りは葡萄畑に始まり、葡萄畑に終わる」

「ワイン造りは、葡萄畑で完結している」


これらもまた、使い古された枕詞であり、私見としては極めて残念に思うが、大多数のワインにとって、真実ではなくなっている


では、何がワインを工業製品化してしまっているのか。


答えは明白だ。


過剰なワインへの人為的介入である。


ある程度の亜硫酸添加は、数々の条件が揃わない限り(詳細は、こちらにて)、必須と考えて問題無いが、ワインが、そのヴィンテージの葡萄が得た本来の性質を大きくねじ曲げてしまう要因となるのは、補酸、過剰な新樽、加水とセニエによる濃度調整、色素抽出とアロマを強めるエンザイム、テクスチャーを増強し、タンニンを円やかにするガム・アラビック、色素、糖度の増強と青味(ピラジン)のマスクに使用されるメガ・パープル、といったもの(添加物に関する詳細は、こちらにて)である。


これらの「近代的醸造」は、(開発当時の思惑は別だったとしても)結果的には、より多くのワインを、安定した品質で、毎年生産するために発展してきた。


近代的醸造は、確かにワイン産業を大きく発展させたが、ナチュラル・ワインというアンチ・カルチャーも後に生み出すこととなった。ナチュラル・ワインに関して話を広げ過ぎると、ショートジャーナルの中では収集がつかなくなるため、詳しくは以前の特集記事をご参照いただきたいが、本稿では「工業製品的ワインとの対比という意味も込めて「農産物的ワイン」としておく。


前置きは、この辺りで止めておくが、筆者がこの記事を書くきっかけになったのは、とあるインポーターとの会話だ。


農産物的ワインとして造られたカリフォルニア産ワインが、「去年と味が違う」と消費者からクレームを受け、ソムリエや酒販店からの返品リクエストに繋がるケースがある、という話だった。


「オールドワールドのワインは、毎年味が変わって当たり前」

「ニューワールドのワインは、毎年同じ味で当たり前」


このような考え方が、いまだにワイン市場に蔓延していることに、大きな疑問を抱いたのだ。


確かに、ニューワールド産地が世界のワイン市場で躍進していくために「技術」が活用されたのは事実だ。筆者も若い頃は、先輩の方々に「ニューワールドのワインは、ヴィンテージ変わってもたいして味が変わらないから、新しいヴィンテージが出ても再度テイスティングする必要なんてない。」と言われたりもした。しかし、その技術はオールドワールドにもしっかりと逆輸入されている一方で、ニューワールドにもアンチカルチャーは例外なく生まれてきた。もはや前述のオールドワールドとニューワールドの違いとしては、成立しなくなっているのだ。


つまり、オールドワールドにも工業製品的ワインは多く存在し、ニューワールドにも農産物的ワインはしっかりと根付いている、ということだ。


この事実を前にして、毎年味が変わるかどうかの結論を、オールドかニューかという超広範囲の要素を頼りに出すのは、明らかに時代遅れの考え方である。


消費者を正しい理解へと導いていくためには、伝え手であるインポーター、酒販店、ソムリエ、ジャーナリストがまず先に正しく理解する必要がある。


至って、シンプルなことだと筆者は思う。


人為的介入範囲の狭い農産物的ワインは、毎年味わいが変化して当たり前。

人為的介入範囲の広い工業製品的ワインは、毎年味わいが大きく変化しないのが当たり前。


ただ、それだけのことなのだから。


誤解なきように、今回の話はあくまでも、工業製品的ワインと農産物的ワインの優劣の話ではなく、違いを正しく理解する、という話である。


実は筆者の元には、このような相談が頻繁に駆け込んでくる。ワインは非常に進化と変化のスピードが早い飲み物だ。専門家が継続的な研鑽を怠っている間に、過去の常識は、時代遅れの誤情報と化す。伝える責任、教える責任、今一度、ワイン市場の中にいる我々専門家は、見直さないとならないだろう。