形骸化し、風化し、ついには消滅したエシェル・デ・クリュを惜しむ声は、どこからも聞こえてこない。
有名無実のシステムを自ら破壊し、シャンパーニュが確かな「意味性」へと舵を切ったのが英断であることは、誰の目から見ても明らかだからだろう。
「生まれ」で全てが決まり、決して覆されることはない。
そのアイデアが邪であることなど、21世紀にわざわざ論じるまでもない。
しかし実際には、大手シャンパーニュメゾンが手がける「プレステージ・キュヴェ」は、その大部分が旧Grand Cruのフルーツで構成されている。
ラベル上にも、Grand Cruの記載は認められたままだ。
だからこそ、改めて問われている。
シャンパーニュにおける、ヒエラルキーの正体とはなんなのか、と。
Grand Cruを旗として掲げることに、意味はあるのか、と。
エシェル・デ・クリュには深刻な問題がいくつもあった。
「固定された葡萄の買取り価格」は、確かにその最たるものの一つだが、その分かりやすい問題点こそが、本当の矛盾を雲隠れさせてしまっていた。