ナチュラルワイン 開かれた問いと責任の所在 (無料公開)
- 13 時間前
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SNSで、とある飲食店の店主が執筆したと思われるエッセイを目にした。理路整然とした実に素晴らしい内容で、共感できる部分も非常に多くあった。
しかし、情緒、感情、対話を重視するあまり、少々危うい理論の飛躍に至っていると感じる部分も少なからず見受けられた。
エッセイの根幹部分は大変素晴らしい主張であるため、ジャーナリストとして真正面から然るべき異議を唱えつつ、理が弱いと感じる部分を補完していこうと思う。
当該エッセイの内容を、「前提」「主張」「結論」の三層に分けて要約すると、以下の通りとなる。
前提
ワインは、人間だけでなく、土壌中の微生物、酵母、気候、セラー環境など、多数の非人間的要因との相互作用のなかで生成されるにもかかわらず、一般的な品質論では「人間は技術によってワインを制御できるはずだ」という前提が置かれやすい。
その制御とは、培養酵母やSO₂などを通じて、人間以外のアクターの働きを抑制・排除することでもある。
また、香りやフレーバーの知覚は、遺伝、文化、文脈、期待、体調、情動などに強く条件づけられており、万人にとって一義的・客観的ではない。
したがって、「欠陥」という言葉は中立的な記述ではなく、ある状態を「あるべきでないもの」と分類し、しばしば造り手の過失へ結びつける権威的な言葉として機能する。
主張
「欠陥」という言葉でワインを断定すると、本来問うべき
「何が起きたのか」
「なぜそのフレーバーが生まれたのか」
「なぜ自分はそれを不快に感じるのか」
という問いが閉じられてしまう。
造り手の責任は、「完璧な製品を作ること」よりも、「起きたことを知り、それにどう応答したかを開示すること」として捉え直すべきである。
飲み手は単なる消費者ではなく、ワインの経験に身体と文脈を持ち込み、プロセスに途中参加する存在である。
したがって、ワインをめぐる関係は、完成品を評価する関係ではなく、造り手・届ける人・飲み手がともに不確定性やトラブルを引き受け、対話する関係として考えるべきである。
目指すべきなのは、技術で不確定性を完全排除することでも、「ナチュラルだから何でもあり」と思考停止することでもなく、トラブルのなかに留まり、問い続けることである。
結論
ワインを「欠陥」という言葉で即断せず、まずはその背後にある生成プロセスと、自分自身の知覚の条件を問うべきである。
ワインは人間だけの意図で決まるものではなく、多くの存在の協働の結果として生まれる以上、その結果を単純に人間の失敗へ還元すべきではない。
造り手、売り手、飲み手は、それぞれが「ここで何が起きたのか」という問いを共有し、不確定なものに応答する関係を築くべきである。

「オフフレーバーが問いかけるもの」への異議
「欠陥」という言葉が問いに蓋をして、思考停止を招くことがある。この指摘自体には、私も強く同意する。
とりわけ、ある香りや風味に対する知覚が、遺伝的差異、文化的背景、文脈、期待によって条件づけられていることを踏まえ、「欠陥」という語があまりに無造作に使われることへの警戒には、十分な説得力がある。
ワインの世界では、ある人が「汚い」「臭い」と感じるものを、別の人が「野性的」「複雑」と受け取ることもある。そうした経験の幅を、「正しい/間違い」という単純な二元論で片づけるべきではない、という主張も実によく理解できる。
しかし、鋭い問題提起と共に始まったこのエッセイを読み進めるうちに、私の中で違和感が蓄積していった。
それは、このエッセイが「欠陥」という語の乱用を極めて論理的に批判するところから出発しながら、いつのまにか造り手と売り手の責任そのものを軽くする方向へと滑っているように見えるからだ。
問題は、「問いを開くこと」の価値ではない。
問題は、それが責任緩和の論理に転化していないか、である。
このエッセイには、次のような一節がある。
『この言葉を使った瞬間に、問いは閉じる。「なぜこのフレーバーが生まれたのか」「そこにどんなプロセスが関わっていたのか」「自分はどうしてそれを不快に感じたのか」——こうした問いは、「欠陥だ」の一語で打ち消される。』
この指摘は、批評の粗雑さに対する批判としては妥当だ。
実際、「欠陥だ」と一刀両断する側が、自分の知覚や価値観を過剰に普遍化し、他者に押し付けている場合は少なくない。だが、ここでまず確認しなければならないのは、問いが閉じることへの警戒と、判断そのものを保留し続けることは同じではない、ということだ。
ある香りがなぜ生じたかを考えることは重要だ。その背後の微生物学的・醸造学的・気候的プロセスを、理解しようとすることも重要だ。
しかし、だからといって、現にグラスの中にあるワインが、売り物として適切かどうかの判断まで無限に先送りしてよいことにはならないのではないか。
ワインは自然物であり、同時に商品でもある。そこを曖昧にしてはならないと私は考える。
このエッセイはさらに、責任について次のように述べている。
『造り手にとっての責任は、「完璧な製品を送り出す」ことではなく、「何が起きたかを知り、それにどう応答したか、そのプロセスと結果を開示する」ことではないか。』
ここに、このエッセイの最も大きく、そして危うい論理的飛躍がある。
たしかに、開示は大切だと、私も思う。
何が起きたのかを説明すること、どんな判断をしたのかを語ること、結果としてどんな風味が生じたのかを率直に伝えること。
これらは造り手の誠実さと正直さを、良く現してくれるだろう。
とくに、自然発酵や低介入を重視する造り手であればなおさら、自らの判断と結果の関係を隠さずに語る姿勢は尊重されるべきだ。
だが、開示は責任の一部であって、責任そのものではない。
「何が起きたかを語った」のだから責任を果たした、ということにはならない。
なぜなら、提供者側の責任には少なくとも三つの層があるからだ。
第一に、説明責任。何が起きたのかを語ること。これはこのエッセイが強調する部分である。
第二に、選別責任。そのワインを出荷するのか、仕入れるのか、顧客に出すのかを判断すること。ここには、造り手にも売り手にも責任があると私は考える。エッセイ中でも言及はされている。
第三に、救済責任。実際に提供されたワインが、合理的に期待される品質水準を下回っていた場合、交換、返品、返金などによって不利益を是正すること。これは単なる思想の問題ではなく、商取引の基本である。
ところがこのエッセイでは、第一の説明責任が前景化される一方で、第二がぼやけ、第三はほとんど見えなくなる。
その結果、「応答と開示」が、いつのまにか免責の雰囲気を帯びてしまう。
たとえば、次の一節もそうだ。
『テイスティングは完成品の検品ではなく、あなた自身がプロセスの一部になる出来事だ。』
実に詩的で、魅力的な一文だ。プロセスの一部となることで、一方向ではなく、消費者が造り手、売り手との対話に加わる。その考え自体に私は反対しない。
だが、ここでもやはり、詩的な真実と実務的な真実が混線している。
たしかにテイスティングは経験であり、参加であり、究極的には相互作用でもある。
しかし、レストランや小売店でワインを提供するという場面において、消費者がまず置かれるのは、商品を受け取る者としての立場である。
消費者は哲学的な実験に参加するためだけに代金を払っているのではない。少なくとも一定の品質水準を満たす飲み物を受け取ることを前提に、対価を支払っている。
この当たり前の前提を、あまりに軽く見てはならないと私は思う。
もしあるワインに、一般的な流通やサービスの現場において、返品や返金の対象となりうるほど深刻な問題が認められるなら、「あなたもプロセスの参加者だ」という言葉は、その瞬間、責任倫理ではなく責任回避のレトリックになりうる。
参加者であることと、救済を受ける権利を持つことは両立する。
むしろ両立しなければならない。
このエッセイが繰り返し訴える「トラブルとともにいる」という姿勢にも、私は一定の敬意を払っている。
実際、ワインの世界には、完全に管理しきれないもの、不確定なもの、予測不能なものがある。それをただ排除の対象とみなすのではなく、「なぜ」と問い続けることは、責任を負う立場として正しく豊かな態度であると感じる。踏み込んだ先からしか見えないニュアンスも、確かにある。
しかし、その豊かさは、責任の線引きを引き受けることとセットでなければならない。
『トラブルのなかに留まること。不確定性を排除するのでも、無条件に受け入れるのでもなく、「これは何だろう」と問い続けること。』
その姿勢自体は素晴らしいとしか言いようがない。だが、商品提供の現場では、それに加えてもう一つ問わねばならないのではないか。
「それでもこのワインは売ってよいのか、出してよいのか」という問いである。
この問いは、認識論ではなく倫理と実務の問いだ。
どれほど由来が興味深くても、どれほどプロセスが複雑でも、どれほど思想的に魅力があっても、消費者に対価を支払わせる以上、売り手はその一点から逃れられない。
そして、その責任を「共にトラブルのなかに留まる」という関係性の中で、消費者にも持たせることは、一般論の範疇では極めて難しいだろう。
対話に応じることと、交換や返金に応じることは別である。
前者は人格的な誠実さに関わる。後者は商業的な責任に関わる。
そして後者は、前者によって代替されない。
ここで改めて明確にしておきたい。私は、このエッセイのすべてを退けたいのではない。揚げ足をとってるつもりも毛頭ない。
むしろ、批評の場において「欠陥」という語がしばしば乱暴に使われること、個人の知覚を普遍的基準のように振りかざす権威主義があること、「ナチュラル」という言葉をめぐる議論がしばしば粗くなること、そうした問題意識には強く同意している。
しかし、それでもなお異議を申し立てたいのは、知覚の多様性という議論から、責任の相対化へ進んではならない、という点である。
ある香りが好きか嫌いかには、間違いなく個人差がある。
ある程度の揮発酸や還元臭を魅力として受け取る人もいれば、受け付けない人もいる。
そのグレーゾーンにおいて、「欠陥」という言葉を急がず、由来や文脈を問うことには、極めて重大な意味がある。
だが、だからといって、ネズミ臭などの深刻な問題まで同じ言葉づかいで包み込んでしまえば、そこには危険が生じる。
本来必要なのは、問いを開くことと同時に、線を引くことだ。
どこまでは感覚の差異として対話の対象になりうるのか。
どこからは商品として不適合であり、交換・返品・返金の対象とすべきなのか。
この線引きは乱暴であってはならないが、曖昧なままでもいけない。
なぜなら、ワインがいかに生命的で不確定な産物であっても、代金のやり取りが発生する以上、そこには非対称な責任が残るからである。
造り手と売り手は、飲み手よりも多くの情報を持ち、より大きな選択権を持ち、より早い段階で品質を判断できる立場にある。だからこそ、責任もまた対称ではない。
『なにものも、自分だけで自分を作らない。』
このエッセイの、最も美しい言葉だ。
だが、だからこそなおさら、結果に対する人間の責任が消えるわけではない。
人間だけが造っていないからこそ、人間は自分が引き受けるべき部分を明確にしなければならない。
自然との共働を語るなら、その帰結として現れたワインを市場に出すかどうかの判断もまた、人間の責任として残る。
問いを開いたままにしておくことは、大切だ。しかし、責任まで開いたままにしてはならない。
「欠陥」の一語で思考停止してはならない。
それはその通りだが同時に、「応答」と「開示」の語で、返品・返金・交換という具体的責任から目をそらしてもならない。
ワインをめぐる対話が本当に誠実であるためには、造り手が語ること、売り手が説明すること、飲み手が応答することに加えて、問題があるときには、きちんと責任を引き受けることが必要である。
その責任を引き受けてはじめて、問いは、単なる美しい理想ではなく、現実に耐える倫理になるのだ。


