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SNSを荒らした、自然派を「装った」ワインとは(特別無料公開)

  • 4月5日
  • 読了時間: 8分

更新日:5月13日

突然、「日本ワイン 自然派」という語をめぐって、SNSがざわつき始めた。


何をいまさら、と思いながら経緯を追っていくと、日本のワイン産業に対して強大な影響力をもつとある人物が、「日本の自然派を装ったワインの98%は、飲めたものではない。あのようなものが、初めてワインを飲む人の口に渡ったら大変だ」という趣旨の発言をされたらしい。


この種の騒ぎではいつも、対象の輪郭も、言葉の射程も、文脈も十分に確かめられないうちに、断定だけが一人で歩き始める。


今回もまた、その見慣れた光景が、少しばかり華やかに再演されているように見える。

「自然派を装った日本ワイン」なるものを一括して断罪する声は、案の定、勢いよく増殖している。


SNSという劇場は相変わらず、考えるより先に合唱することにかけて、実に勤勉だ。


もっとも、ひとつ留保しておきたい。 私はその発言がなされた場に居合わせたわけではなく、ここで接しているのは、あくまで文脈を失った断片情報である。

したがって、以下は発言全体の精密な再現に基づく批評ではなく、現在流通している表現に対する限定的な応答にすぎないため、発言者の真意を断定することはできない。

だが少なくとも、この言葉がどのような誤読や増幅を招きやすいかを検討することはできる。



「装った」

まず問題にしたいのは、「装った」という言葉である。


端的で強く、便利な言葉だ。


そして便利な言葉はたいてい、精度を犠牲にして勢いを手に入れる。


ここで問われるべきは、誰が、何を、どのように「装って」いるのかという点だ。


造り手自身が、実態に反して、自らを自然派と明示的榜しているのか。


あるいは、そこまで露骨には名乗らずとも、ラベル、販促文、店頭での説明、写真の演出、語彙の選び方などを通じて、自然派的な印象を暗示的に強く示しているのか。


それとも、造り手がそのような自己演出をしていないにもかかわらず、流通、販売、消費の側が、自然派的なイメージを読み込み、あるいは勝手に着せているのか。


明示的な自己規定、暗示的な演出、第三者による誤分類は、本来きちんと切り分けて考えられるべきである。


この区別を省いたまま「装った」と一括してしまえば、議論は最初から粗くなる。

虚偽表示なのか、印象操作なのか、流通上の誤読なのかで、責任の所在も批判の射程も変わるからだ。


とりわけ厄介なのは、暗示的な演出という領域である。


明示的な虚偽ほど単純ではなく、第三者による誤読ほど無知に基づいた無垢でもない。


そのぶん境界は曖昧で、判断にはより高い精度が要る。

そこを曖昧なまま「装った」と括れば、批評はすぐに、安易な断罪へ堕ちる。


自然派、あるいはナチュラルワインと呼ばれるカテゴリーに、包括的で明確な法的定義が存在しない(クラシックワインにもそのような法的定義は存在していないが)ことは、いまさら確認するまでもない。


しかし、法的定義がないことと、判断の基準が存在しないこととは別である。


現場や市場のなかで、長い時間をかけて形成されてきた、暗黙のボーダーラインとも言えるおおよその判断基準はたしかにある。


その中心にあるのは、少なくともこの語が厳密さをもって扱われる文脈においては、栽培において化学合成農薬を一切使用しないこと、醸造において不必要な介入を極力避けることである。


一般的な感覚からすれば、ずいぶん厳しい基準に見えるかもしれないが、自然派という語が一定の緊張感を伴って用いられてきた領域では、むしろその厳しさこそが前提だった。


もちろん、醸造の実践には幅がある。個別の判断もあれば、例外的な事情もある。


だが、少なくとも栽培に関して言えば、この一点は本来かなり明瞭である。


市場にはこの境界を曖昧に語る言説も少なくないが、境界が不用意に曖昧化されてきたことと、境界そのものが存在しないことは同じではない。


少なくとも私が見てきた範囲では、この語を自ら積極的に名乗ることに慎重な造り手は少なくない


重要なのは、不誠実な自己演出の事例が一件も存在しないと断言することではない。

問題は、実態の異なる造り手たちを、売り手や飲み手の側が安易に一つの記号へ押し込み、そのうえで「装った」という便利な語で総称してしまうことの危うさである。


仮に一部に、自然派的なイメージを販売上うまく利用している例があるとしても、それは個別に批判されるべき問題だ。


だが、個別の不誠実さがありうることは、広い範囲を曖昧なまま括ってよいことの理由として成立しない。


対象の輪郭が曖昧であるほど、そこには個別の差異を無視した否定を強引に流し込みやすくなるのだから、我々はこの点に関して、慎重すぎるほど慎重になっても良いくらいだ。




「98%」

次に、「98%が飲めたものではない」という表現について。


ここでまず問うべきなのは、この数字が正しいかどうか以前に、そもそも何を母集団としているのかという点である。


造り手自身が自然派を明示しているワインを指すのか。

市場で自然派的なものとして流通しているワイン全体を指すのか。

あるいは、話者の感覚のなかで自然派“風”と見なされたものを便宜的に一括しているのか。


この輪郭が定まらないままでは、98%という数字は強烈ではあっても、検証不能である。


さらに言えば、その評価がどのような試飲経験、比較対象、判断基準に基づくのかも示されていない。


対象範囲、評価の物差しが明らかでないまま提示された数値であるなら、それは厳密な意味での統計というより、数値の形式を借りた強調表現として読むほかない


誇張そのものを悪とするつもりはない。人はしばしば、真実そのものより、真実への態度を印象深く示すために大きな言葉を使う。


ただ、数字が混ざると話は厄介になる。

人は数値に、不思議なほど従順だからだ。


断言に数字が添えられた瞬間、その正体が感情であっても、妙に計測済みの顔をし始める。


もちろん、日本のいわゆる自然派ワイン、あるいはその文脈で流通しているワインのなかに、品質的に厳しいものが少なからず存在することは否定しない


未熟さ、粗さ、衛生管理の甘さ、単純な欠点までが、スタイルや思想の名で包まれてきた場面も、残念ながらなかったとは言えない。


その意味で、問題提起そのものには一定の妥当性がある。


だが、問題提起に妥当性があることと、極端な比率の断定が正当化されることを混同すべきではない


私のジャーナリスト魂にかけて宣言しよう。


日本には、自然派と呼ばれる領域、あるいはその文脈で語られる領域のなかにも、国際的な比較に耐えうる水準のワインが現実に存在している。


大切なのは、それらの本数をここで厳密に統計化できるかどうかではない。


そうではなく、そうした存在が現にある以上、「98%」という数字は、慎重な分析の結果というより、拒絶の強度を印象づけるための言葉として理解する方が自然だ、ということである。


あえて邪推するのであれば、その強い拒絶は「日本の〜」という境界線を遥かに超えた、自然派というカテゴリーそのものへの嫌悪としてすら読み取ることもできてしまう。


数字の扱いを間違えると、そういうことになってしまうのだ。




「入口の質」

最後に、「そのようなものが、初めてワインを飲む人の口に渡ったら大変だ」という部分について。


この懸念そのものを、まるごと嘲笑するつもりはない。


初心者が極端に質の低いワインに出会えば、そのカテゴリー全体への印象が損なわれることは実際にありうる。話者の立場も鑑みれば、入口の質を気にかけること自体は理解できる。


しかし、ワインが嗜好品である以上、ある種のスタイルを入口として不適切だと一般化し始めると、議論は品質の問題から、価値観の管理へと滑りやすい


問題にすべきは、あるスタイルが入口になりうること自体ではない。


そのスタイルの性格や弱点や品質差について十分な説明がないまま、無邪気に礼賛されたり、逆に一括して排除されたりすることこそが問題なのである。


必要なのは、入口の統制ではなく、入口に付随する言葉の精度だろう。


どのようなワインで、どのような魅力があり、どのような欠点があり、どこにリスクがあり、何をもって美点と呼び、何をもって瑕疵と呼ぶのか。


そこを丁寧に言葉にする努力こそ、本来の教育であるはずだ。


初心者保護の名目で、特定のスタイルをあらかじめ入口から外そうとする発想は、文化の防衛に見えて、結果として入口の多様さを狭める危険がある。


飲酒人口が減り続ける時代にあって、ワインへ関心を持つ入口は、本来もっと多様であってよい。


もちろんそれは、何でも無条件に礼賛せよという意味ではない。


むしろ逆で、その多様さに見合うだけの説明責任を、こちら側が引き受けるべきだという意味である。


結局のところ、今回の件で私が問題にしたいのは、自然派ワインに欠点があるかどうかではない。


また、切り抜きだけを手がかりに、発言者個人の意図や資質まで推し量ろうということでもない。


むしろ気になるのは、輪郭の曖昧な対象、母集団も基準も定かでない数字、そして初心者保護というもっともらしい大義がひとたび切り抜きとして流通した瞬間、それがいかにも扱いやすい燃料として消費されていく、その反応の方である。


言葉は、ときに意味を受け取るため以上に、考える手間を省くために歓迎される。

しかもそういう言葉ほど、妙に歯切れがよく、少しばかり正義の顔をしているから厄介である。


ワインは本来、もっと面倒で、もっと曖昧で、もっと個別的なもののはずだ。


その面倒を引き受ける気がないなら、せめて断言だけは少し控えめであってほしい。


グラスの中身を疑う前に、まずその言葉をめぐる反応の方が、どれほど乱暴に現実を単純化しているかを見た方がいい。


ワインにも言葉にも、少し空気に触れて落ち着く時間は要るのだから。




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