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祝福の鐘は、葡萄畑から鳴り響く <オーストラリア・クラフト・ワイン特集:後編>

過ちを正すのは難しいことではない。だが、正したことを理解してもらえるかは、全く別の問題だ。「他人の不幸は蜜の味」という底知れぬ悪意は、カソリック教会における「七つの罪源」や、ダンテの叙事詩「神曲」などにおいて、人を罪へと導くものとして常に描かれてきたように、残念ながら、人という種にとって、極めて自然発生的なものだ。だからこそ、消し去りたい過去ほど、他者によって消えない烙印のように刻まれてしまう。だからこそ、「農」のワインであれば許されたはずの失敗は、「人」のワインであったが故に、許しを得る可能性が著しく制限されてしまった。


だが、それで良いのだろうか。失敗した人間の成長を認められないほど、人の心に善と許しは無いのだろうか。


決して違う、と私は信じていたい。


悪意ではなく、善意でもって、受け止めて欲しい

オーストラリアの、自然を愛する造り手たちの想いと、結果に対する責任を



矛盾からのそれぞれの脱出

極端な醸造的欠陥が生じたワインは、テロワールを表現する能力を失う。葡萄畑のありのままの自然な姿を表現しようという想いが暴走し、そのための手段を決定的に誤った結果として、オーストラリアだけではなく、世界中の多くのナチュラル・ワインが、テロワールを見失うという矛盾に陥った。この矛盾は、そもそもテロワールを表現しようとしていないのであれば問題にすらならないのだが、実際には、彼らの想いは葡萄畑の表現にあった。変わらないままでは、すぐにでも行き止まりに当たる。不可避に思える未来の可能性をしっかり受け止めたからこそ、彼らは前に進むことを選んだ。それぞれの方法で、それぞれの想いや誠実な心と共に


オーストラリア・クラフト・ワイン・ムーヴメントの先頭に立っていたアントン・フォン・クロッパー(Lucy Margaux)は、醸造所を新設し衛生環境を向上させると共に、レストラン(アントンは元々シェフでもある)も開業した。亜硫酸無添加への拘りは相変わらずだが、以前と比べると欠陥的特徴が抑制され、ディテールが見えるようなワインが増えてきた。特に、自らのレストランで自らのワインを提供するという方法は、不安定になる可能性が捨てきれないワインを、最も良いコンディションで味わうための、最良の選択肢の一つだ。非常に高く評価できる試みだと、筆者は強く思う。


アントンと並んで、このムーヴメントの象徴的存在となっていたジェームス・アースキン(JAUMA)は、生産量を半分以下に落とし、カーボニック・マセレーションに独自のアレンジを加えた醸造方法の精度を高め、格段に品質を向上させた。亜硫酸は相変わらず無添加だが、以前に比べると圧倒的に安定している。また、赤ワイン造りにおける抽出も以前より強まっているため、品種の個性や葡萄畑のテロワールも、はっきりと見えるようになった。

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