権威があなたを裏切った日-ミシュラン・グレープ- (期間限定無料公開)
- 20 時間前
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Michelin Guideが、ブルゴーニュの生産者に対する新たな格付けを発表した。
案の定、発表直後から議論が噴出した。
反応を、少し乱暴にまとめてしまえば、こんなところだ。
「あのドメーヌが、この位置なのはおかしい。」
「昔から偉大とされてきた生産者が、なぜ名前も知らないドメーヌより下なのか。」
「こんな格付けは信用できない。ミシュランも地に落ちた。」
一方で、Domaine Arnoux-Lachauxは、少し違う角度から異議を唱えた。
近年、ミシュランを受け入れず、プレスにもワインを提示していないにもかかわらず、現在のドメーヌを何に基づいて評価したのか。
順位ではなく、評価へ至るプロセスを問い、掲載の削除を求めた。
この二つは、同じ反論ではない。
一方は、プロセスへの問いである。
もう一方は、自分の記憶と違う、という不満だ。
私は、今回のミシュランの格付けが正しいと言いたいわけではない。
逆に、間違っていると断じるつもりもない。
そもそもワインの評価とは、それほど簡単に正誤へ振り分けられるものではない。
ワインは嗜好品である。
そして、評価するのは人間だ。
どれほど緻密な基準を設けても、最後に判断を下すのは、人間の鼻であり、舌であり、経験であり、美意識である。
思い入れや思い込みを完全に排除することも、現実的には困難だ。
そうした揺れを少しでも抑えるために、ワイン教育は、共通の語彙や手順を設けてきた。
しかし、主観を制御しようとどれだけ試みても、主観が消えることはない。
だから、問うべきは、主観であるかどうかではない。
その主観が歩んできた道のりだ。
比較しながら飲んできた膨大な本数。
畑で過ごした時間。
造り手と交わした会話。
失敗した予想。
覆された先入観。
更新し続けた知識。
その一つひとつが、主観に少しずつ重さを与えていく。
だから、信頼に値する評価者は存在する。

しかし、訓練と検証によって高められるのは、あくまで主観の精度であり、評価とは、その精度を限界まで高めようとする仕事だ。
だからこそ、客観的に運営された主観を、客観そのものと混同してはならない。
ところが、格付けという形式を与えられた途端、人はその境界をあっさり見失う。
星が付き、葡萄の数が並び、数字が与えられる。
すると、一人あるいは複数の人間が下した判断は、いつの間にか重力と同じ種類の事実として扱われる。
評価者が差し出した「私たちはこう考える」が、受け取る側の手元で「世界はこうである」へ変換される。
自分で飲み、自分で迷い、自分で考える。
その面倒を尊いと感じない人にとっては、誰かの評価がすべてを引き受けてくれる仕組みは、随分と便利なのだろう。
だが、その客観らしきものが自分の信じてきた序列と食い違った途端、彼らは権威の危険性を思い出す。
昨日まで権威をありがたく拝借していた人が、突然、勇敢な反権威主義者になる。
「あの生産者が、そんな位置であるはずがない。」
SNS上で紛糾してまで主張するその確信は、いったいどこから来るのだろう。
現在のワインを継続的に飲んだ経験からか。
評価基準を精査した結果か。
同じ条件で比較試飲を行ったのか。
そのすべてを実践したうえでの確信なら、話は別だ。
だが、大抵はそうではない。
昔から、そう教わってきた。
それだけである。
七十年以上前にサッカーW杯で優勝した国だからという理由だけで、今も無条件に世界最強だと考える人がいたら、おそらく多くの人は首をかしげる。
「最近のサッカーを見ていますか。」
最初に返ってくるのは、その言葉だろう。
過去の栄光だけで現在の強さを語ることは、歴史への敬意ではない。
現在を見る仕事を放棄しているだけだ。
ところがワインの世界では、驚くほど似た行為が、少し上品な語彙と、レトロな記憶のヴェールに包まれ、権威ある見識として流通している。
二十年前の序列を暗唱できることと、現在のブルゴーニュを知っていることは、まったく別の能力だ。
過去の名声は、現在を考えるための重要な資料になる。
だが、その資料は判決文ではない。
造り手は世代交代し、畑の管理方法は変わる。
抽出も、全房発酵の塩梅も、樽の使い方も変わる。
気候変動は、かつての美点を弱点へ変え、かつての周縁を新しい可能性へ押し上げることさえある。
ブルゴーニュは変わり続けている。
変わらずに済んでいるのは、昔買った本を閉じていない人の頭の中くらいだ。
もっとも、古い序列と違うという不満と、評価プロセスへの疑義は、やはり分けなければならない。
前者は、批評というより戸惑いに近い。
後者には、評価する側が答えるべき問いがある。
何を飲んだのか。
いつ飲んだのか。
どのヴィンテージを、どれほど比較したのか。
生産者の現在を、本当に見ているのか。
Arnoux-Lachauxの反論は、そこを的確に突いている。
評価方法が不透明なら、権威の大きさに関係なく追及されるべきだ。
主観だからこそ、手続きは明らかでなければならない。
主観だからこそ、評価者には説明責任がある。
そして、読む側に必要なのは、責任ではない。
距離感である。
他人の評価は、正解ではなく、その人が差し出した視点として受け取ればいい。
自分と違う。
それだけで、即座に誤りへ変換する必要はない。
自分の知っている序列もまた、自然な秩序ではない。
「私はそう思わない」と、「それは間違っている」の間には、思っている以上に深い溝がある。
公開されているのは、結局のところ、他人の感性である。
もちろん、その感性には、経験も知識も責任も必要だ。
だが、それでも最後に残るのは、一つの見方である。
格付けは、真理ではない。
対象を見るために置かれた、一本の物差しだ。
その物差しが歪んでいるなら批判すればいい。
測り方が不透明なら問いただせばいい。
だが、自分の記憶と違う長さが出たというだけで、物差しを床へ叩きつけるのは、批評とは呼ばない。
ただ、怒っているのである。
客観を求めることはできる。
評価の精度を高めることもできる。
しかし、嗜好品の評価から主観を完全に追い出すことはできない。
にもかかわらず、私たちはしばしば、他人の主観には客観性を要求し、自分の主観だけは、最初から客観であるかのように扱う。
実に滑稽で、どこまでも人間臭い話だ。
ミシュランの葡萄がいくつ付いたかより、私にはそちらの方がずっと興味深い。