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権威があなたを裏切った日-ミシュラン・グレープ- (期間限定無料公開)

  • 20 時間前
  • 読了時間: 5分

Michelin Guideが、ブルゴーニュの生産者に対する新たな格付けを発表した。

案の定、発表直後から議論が噴出した。


反応を、少し乱暴にまとめてしまえば、こんなところだ。


「あのドメーヌが、この位置なのはおかしい。」

「昔から偉大とされてきた生産者が、なぜ名前も知らないドメーヌより下なのか。」

「こんな格付けは信用できない。ミシュランも地に落ちた。」


一方で、Domaine Arnoux-Lachauxは、少し違う角度から異議を唱えた


近年、ミシュランを受け入れず、プレスにもワインを提示していないにもかかわらず、現在のドメーヌを何に基づいて評価したのか。

順位ではなく、評価へ至るプロセスを問い、掲載の削除を求めた。


この二つは、同じ反論ではない。


一方は、プロセスへの問いである。

もう一方は、自分の記憶と違う、という不満だ。


私は、今回のミシュランの格付けが正しいと言いたいわけではない。

逆に、間違っていると断じるつもりもない。


そもそもワインの評価とは、それほど簡単に正誤へ振り分けられるものではない


ワインは嗜好品である。

そして、評価するのは人間だ。


どれほど緻密な基準を設けても、最後に判断を下すのは、人間の鼻であり、舌であり、経験であり、美意識である。

思い入れや思い込みを完全に排除することも、現実的には困難だ。


そうした揺れを少しでも抑えるために、ワイン教育は、共通の語彙や手順を設けてきた。


しかし、主観を制御しようとどれだけ試みても、主観が消えることはない。


だから、問うべきは、主観であるかどうかではない。

その主観が歩んできた道のりだ。


比較しながら飲んできた膨大な本数。

畑で過ごした時間。

造り手と交わした会話。

失敗した予想。

覆された先入観。

更新し続けた知識。


その一つひとつが、主観に少しずつ重さを与えていく。


だから、信頼に値する評価者は存在する



しかし、訓練と検証によって高められるのは、あくまで主観の精度であり、評価とは、その精度を限界まで高めようとする仕事だ。


だからこそ、客観的に運営された主観を、客観そのものと混同してはならない。


ところが、格付けという形式を与えられた途端、人はその境界をあっさり見失う


星が付き、葡萄の数が並び、数字が与えられる。


すると、一人あるいは複数の人間が下した判断は、いつの間にか重力と同じ種類の事実として扱われる。


評価者が差し出した「私たちはこう考える」が、受け取る側の手元で「世界はこうである」へ変換される。


自分で飲み、自分で迷い、自分で考える。

その面倒を尊いと感じない人にとっては、誰かの評価がすべてを引き受けてくれる仕組みは、随分と便利なのだろう。


だが、その客観らしきものが自分の信じてきた序列と食い違った途端、彼らは権威の危険性を思い出す。


昨日まで権威をありがたく拝借していた人が、突然、勇敢な反権威主義者になる。


「あの生産者が、そんな位置であるはずがない。」


SNS上で紛糾してまで主張するその確信は、いったいどこから来るのだろう。


現在のワインを継続的に飲んだ経験からか。

評価基準を精査した結果か。

同じ条件で比較試飲を行ったのか。


そのすべてを実践したうえでの確信なら、話は別だ。

だが、大抵はそうではない。


昔から、そう教わってきた。

それだけである。


七十年以上前にサッカーW杯で優勝した国だからという理由だけで、今も無条件に世界最強だと考える人がいたら、おそらく多くの人は首をかしげる。


「最近のサッカーを見ていますか。」


最初に返ってくるのは、その言葉だろう。


過去の栄光だけで現在の強さを語ることは、歴史への敬意ではない。

現在を見る仕事を放棄しているだけだ。


ところがワインの世界では、驚くほど似た行為が、少し上品な語彙と、レトロな記憶のヴェールに包まれ、権威ある見識として流通している。


二十年前の序列を暗唱できることと、現在のブルゴーニュを知っていることは、まったく別の能力だ。


過去の名声は、現在を考えるための重要な資料になる。

だが、その資料は判決文ではない。


造り手は世代交代し、畑の管理方法は変わる。

抽出も、全房発酵の塩梅も、樽の使い方も変わる。


気候変動は、かつての美点を弱点へ変え、かつての周縁を新しい可能性へ押し上げることさえある。


ブルゴーニュは変わり続けている。


変わらずに済んでいるのは、昔買った本を閉じていない人の頭の中くらいだ。


もっとも、古い序列と違うという不満と、評価プロセスへの疑義は、やはり分けなければならない。


前者は、批評というより戸惑いに近い。

後者には、評価する側が答えるべき問いがある。


何を飲んだのか。

いつ飲んだのか。

どのヴィンテージを、どれほど比較したのか。

生産者の現在を、本当に見ているのか。


Arnoux-Lachauxの反論は、そこを的確に突いている。


評価方法が不透明なら、権威の大きさに関係なく追及されるべきだ。


主観だからこそ、手続きは明らかでなければならない。

主観だからこそ、評価者には説明責任がある。


そして、読む側に必要なのは、責任ではない。

距離感である。


他人の評価は、正解ではなく、その人が差し出した視点として受け取ればいい。


自分と違う。

それだけで、即座に誤りへ変換する必要はない。


自分の知っている序列もまた、自然な秩序ではない。


「私はそう思わない」と、「それは間違っている」の間には、思っている以上に深い溝がある。


公開されているのは、結局のところ、他人の感性である。


もちろん、その感性には、経験も知識も責任も必要だ。

だが、それでも最後に残るのは、一つの見方である。


格付けは、真理ではない。

対象を見るために置かれた、一本の物差しだ。


その物差しが歪んでいるなら批判すればいい。

測り方が不透明なら問いただせばいい。


だが、自分の記憶と違う長さが出たというだけで、物差しを床へ叩きつけるのは、批評とは呼ばない。

ただ、怒っているのである。


客観を求めることはできる。

評価の精度を高めることもできる。


しかし、嗜好品の評価から主観を完全に追い出すことはできない。


にもかかわらず、私たちはしばしば、他人の主観には客観性を要求し、自分の主観だけは、最初から客観であるかのように扱う。


実に滑稽で、どこまでも人間臭い話だ。


ミシュランの葡萄がいくつ付いたかより、私にはそちらの方がずっと興味深い。

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