正直に言おう。私の心は長らくの間、ボルドーから離れていた。かつて夢中になっていたことを、どこか小っ恥ずかしく感じて、少し酸っぱい想い出に蓋をするようなところもあったとは思うが、単純に、私の心に響くボルドーになかなか出会わなくなっていたのもまた事実だ。思えば、近代のボルドーにとって、莫大な設備投資は品質向上とイコールであるかのような報道が、絶え間なく続いてきた。その金満的で工業的な進化は、ワインに自然への賛美を求める私のようなトラディショナリストにとって、決して魅力的なものではなかった。もちろん、全てのボルドーがそうでは無いことは重々承知していたが、それでも、私の酷く個人的で感情的な嫌悪感を拭い去るには至ってこなかった。はっきりと言おう。私はもうとっくの昔に、ボルドーのファンではなくなっていたのだ。そんな私が、なぜ今更ボルドーに向き合うことになったのか。かの地に対して10年以上失っていた興味が、なぜ戻ってきたのか。それは、ボルドーが変わったからだ。驚くほど劇的に、そして急速に。今ボルドーは、世界最高の銘醸地として、世界のワインシーンを力強く牽引する存在へと返り咲こうとしている。
世界最先端のサスティナブル産地
ボルドーとサスティナビリティのイメージが結びつく人は、ほとんどいないだろう。それもそのはずだ。フランスにおけるビオロジック、ビオディナミ、リュット・レゾネ(以降、まとめてサスティナビリティと記述する)を牽引してきたのは、ブルゴーニュ、アルザス、ロワールやジュラといった産地であり、ボルドーは(極一部での導入はあったものの)完全に蚊帳の外だった。
サスティナビリティの導入は、必ずと言って良いほど、何かしらの商業的リスクが伴う。すでに世界に名だたる銘醸地としての確固たる地位を確立して久しいボルドーにとって、そのようなリスクをとる動機が極めて希薄だったのは事実だろう。そう、ボルドーには相当な期間、環境問題から目を背け、慢心を放置し、胡坐をかいていられるだけの余裕があったように見えた。少なくとも、中国市場が桁違いの囲い込みを続けている間は。
しかし、中国圏及び華僑富裕層の興味が、明確にブルゴーニュへとシフトし始めた頃から、ボルドーはそのままでは居られなくなった。設備投資を惜しまずに最先端風のワインを造り、巨額のマーケティング費用を投じていれば安泰、というビジネスモデルが、崩壊し始めたのだ。ボルドーは再び、世界市場の支持を集める必要に駆られた。日本国内においても、多くのワイン有識者たちが感じてきたことと思う。果たしてボルドーは、このままで良いのか、と。