2022年4月10日5 分
筆者はかつて、個室しかない高級店に勤めていたことがある。
連日連夜、政財界や芸能界の重鎮たちが訪れるそのお店には、個室が大小合わせて16室あった。
個室でのサーヴィスというのは、オープンスペースでのテーブルサーヴィスと比べると、体感で2~3倍は手がかかる。個室である以上、サーヴィスマンやソムリエが入室する回数は極限まで少なくする必要があり、当然、一度入室したら目的を果たすまで易々とは退室できない。つまり、一回のサーヴィス時間がどうしても長くなるのだ。
さらに難しかったのは、その店に訪れる顧客の90%以上が、ビジネスディナーとして利用していたという点だ。これが一般客向けの個室なら、テーブルサーヴィスと同様に、適度に「お待ちいただく」という技術も使えなくはないのだが、ビジネスディナーの場合、基本的には「最速が正解」だ。
16室ある個室が完全満室になった場合(週末以外はそういう日が多かった)、分身の術でも使わない限り、全ての個室に対して真っ当なワインサーヴィスをするのは、物理的に不可能だった。
しかし、ソムリエは売上を上げてこそ価値がある、というのはアメリカ時代からの厳しい教え。そうそう簡単に諦めるわけにもいかなかった。
そこで私は、ドリンクに特化した顧客データを作り始めた。記憶に頼るほど、自身の能力を過大評価していないので、しっかりと記録に残すようにしたのだ。
平均的な予算、会食の人数に対する平均的な本数、本人の酒量、味わいの好み、ゲストに任せるか、本人がイニシアチブを取るか、などなど、かなり詳細に記録を取っていった。
そして、予約表を見て、全てのゲストに対して、あらかじめプランAとプランBを立てておき、各サーヴィス担当者に伝えておくことにした。さらに、最速で提供できるように、事前に地下セラーからワインを移動させておくことも多かった。
もちろん、全てを自分でやらないという訳ではなく、可能な限りファーストオーダーには顔を出し、プランAかBかを確定させるようにはしていた。
このオペレーションを組み、スタッフが慣れてきた頃には、ほとんどのゲストはプラン通りにワインを頼んでくれるようになっていた。ソムリエとしては、もっとゲストとの会話を楽しんで、エンターテイメントしたいところだったが、ビジネスディナーの席では無用。私は、ゲストの信頼を得て、ディナーを円滑に進め、しっかりと売上も上げることに、集中するようにしていた。
しかし、ある日のディナータイム。会食中のお席から、呼び出しが入った。
新しいオペレーションには相当磨きがかかっていた頃だったので、通常なら途中で呼び出されるようなことはまずなかった。
しかも私を呼び出したゲストは、芸能界の重鎮。老練なオーラが漂う傑物で、私も毎度、痺れるような緊張感を覚える人だった。
それにしても、不意を強烈につかれた気分だった。
ゲストの好みは完全に把握しているつもりだったし、準備も、ファーストオーダーでの会話も、一切の抜かりがなかったはずだったのだ。
何か、見落としていたのか。
何か、粗相があったのか。
血の気が引きそうになる自分をなんとか抑えて、個室のドアを軽くノックした。
個室に入ると、ゲストの後ろ姿が見え、彼は振り向かないまま、私を呼んだ。
「ねぇ、ソムリエさん、このワインなに?」
と短く鋭い言葉が走った。
「(○○さんのお好きな)カリフォルニアのシャルドネですが、お口に合いませんでしたか?」
と恐る恐る返すと、想像とは違った返答がきた。
「いやいや、違うんだよ。このワイン、あまりにも美味しくて、びっくりしちゃって。すごく気に入ったから、僕用にたくさんストックしといて貰えるかな?」
高級ワインは散々飲んできたであろうゲストの心を、一発で射止めたそのワインの造り手は、Rivers-Marie。カリフォルニアのトップ醸造コンサルタントであるトーマス・リヴァー・ブラウンが、奥さんと共に手がけるプライヴェート・ブランドだ。
カリフォルニア・ワインに明るい人であれば、トーマス・リヴァー・ブラウンの名は知らなかったとしても、彼が醸造コンサルタントとして手がけた、ハンドレッド・エーカー、シュレーダーといったワインのことは知っているだろう。
醸造コンサルタントとして、時代が求める味わいをしっかりと実現し、100点というスコアを何度も叩き出してきた彼だが、自身のプロジェクトであるRivers-Marieでは、同じ人物が作ったとは思えないほど、異なるスタイルでワイン造りに臨んでいる。
いや、Rivers-Marieの味わいこそが、トーマス・リヴァー・ブラウンという稀代の醸造家にとっての理想像なのだろう。
ピノ・ノワールとシャルドネは、冷涼なオキシデンタル地区や、アンダーソン・ヴァレーに特化し、カベルネ・ソーヴィニヨンはナパ・ヴァレーから。
その葡萄のポテンシャルが最大限に発揮されつつも、確かな個性の宿る畑が選び抜かれている。
ワインメイキングはむしろ、かなり控えめになってはいるのだが、テロワールの味わいがしっかりと息づきながらも、絶妙としか言いようがないバランスに仕上げてくるあたりは、やはりトーマス・リヴァー・ブラウンの類まれなるセンスと圧倒的な技術を感じざるを得ない。
実は、長らくの間、Rivers-Marieにあまり触れてこなかった。
打率9割のバッターというのは、ゲームバランスを崩壊させてしまう。
ゲストをエンターテイメントするという意味でのワインサーヴィスには、それなりにゲーム性が必要だと筆者は考えていたため、Rivers-Marieは(先述の店舗のような特殊な環境以外では)逆に使いにくかったのだ。
なんとも自分勝手な理由で敬遠してきて申し訳なかったが、久々に飲んだRivers-Marieはやはり抜群に素晴らしかった。
六千円代でこの品質のシャルドネが、カリフォルニアという有名産地から出てくるのであれば、正直もう、ブルゴーニュはいらないとすら思ってしまう。
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「再会」と「出会い」のシリーズは、SommeTimesメインライターである梁世柱が、日々のワイン生活の中で、再会し、出会ったワインについて、初心者でも分かりやすい内容で解説する、ショートレビューのシリーズとなります。