集合意識というのは、非常に興味深い概念だ。直接的なコミュニケーションをとっているわけでも無いのに、何かしらのミディアムを通じて、度々全世界を包み込むようなイデオロギーの変化が生じる。
人種差別、性差別、人権侵害、軍事的侵略行為への反対といった人そのものの在り方に関わるもの、オーガニックやサスティナビリティの推進といった地球と人間の双方に関わるもの、食のライト化といった人の趣味嗜好に関わるもの。近代から現代にかけて起こった集合意識によるイデオロギーの変化だけでも、まだまだ長いリストができるだろう。
そして、変化と自戒は往々にして表裏一体である。
様々な差別を繰り返してきたことに対する自戒、人類史のほとんどを戦争と侵略で埋め尽くしてきたことへの自戒、環境破壊を積み重ね深刻な気候変動を招いたことに対する自戒、生活習慣病の爆発的増加への自戒。
先述した全ての変化に、その根源となった自戒が存在し、折り重なった自戒は、やがて集合意識となって、全世界規模の改善を促し始める。
それらに比べるとずっと規模は小さいが、ワインの世界でも、同様の集合意識による変化が生じることは決して珍しくない。
その最たる例が、パーカリゼーションの隆盛と、そこからの脱却という一連の流れだ。
たった一つの価値観を満たすために、世界中が猛進する。その歪みは強力なアンチ・カルチャーを生み出し、急速な方向転換に繋がった。
評論家の高スコアをターゲットにしたものではなく、テロワールと人を素直に写したワインを造る。その魅力がより多くの人に伝わること自体は喜ばしいが、それ自体を目指すこともしない。断崖によって分たれたかのようだったテロワールと人の距離が、再び縮まり始めた。
この集合意識は、伝統産地よりも新興産地、すなわちニュー・ワールドでより強く働いたと言える。躍進への最短ルートがその価値を失い始めたことにニュー・ワールドの様々なワイン産出国が迅速に反応し、テロワールの再定義を始めた。そして、かつては画一的だったティピシテが希薄化し、自由な表現が数多く生まれた。
そう、この変化は、進化でも、解放でもあったのだ。
南アフリカのワインも同じような変化を辿っているように見えてはいたが、現地を訪れた段階では、まだ確信には至ってなかった。
だからこそ、確かめる必要があった。自らの五感を極限まで研ぎ澄ませて、ワインに宿ったものを探り当てる必要があった。
そして、その確認作業を最も容易にする葡萄品種は、カベルネ・ソーヴィニヨンを置いて他に無い。
誤解
ボルドー品種、特にカベルネ・ソーヴィニヨンは、広く誤解されてきた品種だ。
確かに、樹勢の強さ、芽吹きの遅さによる遅霜の回避、砂利という非常に一般的な土壌が好適とされる性質によって、よほどの冷涼地でない限り、灌漑、農薬等を駆使すれば十分に育てやすい部類には入る。新樽との相性の良さや、添加物も含む多種多様な醸造手段との親和性の高さ故に、「場所を選ばない」という見解が生じるのも理解できる。しかし、本来のカベルネ・ソーヴィニヨン(以降、省略してCSと表記)は、ヴィンテージ・コンディションによって著しく不安定な結果を出し続けてきたかつてのボルドー左岸が証明しているように、たとえ間口が広かったとしても、その真価が発揮できる条件自体は極めて限られている。
「近代的醸造・栽培技術の発展は、CSと共にあった。」とすら言われる理由は、まさにここにある。CSは難しい品種でありながら、その難点の多くは、技術で相当程度カヴァーできてしまったのだ。
そしてその発展の歴史を逆手に取れば、CSから「加工」を剥がせば、テロワールが鮮明に露出する、という方程式が立ち現れる。
CSの栽培が広く一般的となっているニュー・ワールド各国においては、多数のCSからテロワールの緻密な表現が感じ取れた場合、(たとえ少々分かりにくい品種があったとしても)その国のワイン産業が、少なくとも、超大量生産型ではないファイン・ワインの部類においては、テロワール・ワインへと向かっていると、ほぼ断定することができる。
では、南アフリカの場合はどうなのだろうか。
結論から先に述べておこう。
数多くのCS比較テイスティングを通じて、私は南アフリカワインが紛れもないテロワール・ワインへと変貌していると、揺るぎない確信を得た。
Bordeaux Varietals
南アフリカ特集の序章では、ブルゴーニュ品種に焦点を当てて、各エリアのテロワールの違いや優劣の存在を探ったが、第二章ではCSを中心としたボルドー系黒葡萄品種をテーマとする。
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