出会い <103> 陸の孤島と秘宝 (期間限定無料公開)
- 4 日前
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Botanica Wines, The Mary Delany Chenin Blanc 2024.
本稿で登場する「出会い」ワインは、去る4月に都内で開催された、南アフリカ在住のMWであり、世界的な南アフリカワインの権威として知られる、Cathy Van Zyl MWによるマスタークラス内で紹介された。
南アフリカワインの推進力を担うような、クールでトレンディーなラインナップは、まさに最先端。
出会いコラムにて、複数回に分けて選抜して紹介していこう。
南アフリカのワイン地図には、中心から眺める者には見えにくい場所がある。
見えないのは、遠いからではない。
名声の光が、そこまで届くようには設計されていなかったからだ。
Skurfberg(スカーフバーグ)は、その典型である。
ケープタウンから北へ、湿った緑が少しずつ後退し、風景が乾き、砂と岩と低い灌木の言葉へ変わっていく。
Olifants River流域、Citrusdal Mountainの山あい。
大西洋からそれほど遠くないにもかかわらず、感覚としては陸の孤島に近い。
海はある。山もある。風もある。むしろ葡萄にとっては理想的とも言える条件で。
だがそこには、名醸地が好んでまといたがる社交的な華やかさがない。
あるのは、乾いた沈黙と、名声の外側で熟してきた時間である。
この土地に根を下ろしていたのは、古いChenin Blancだった。
いくつかの農場に忘れ去られたかのように佇んでいた、乾地栽培のブッシュヴァイン(株仕立て)。
1960年代から1980年代に植えられた株も多く、なかには自根の古木もある。
灌漑に甘やかされず、痩せた砂岩質の土壌に深く潜り、暑さと乾きのなかで、少ない房だけを結ぶ。
近代的な生産性から見れば、まことに効率の悪い畑である。
だがワインにおいて、効率の悪さはしばしば、真理が身を隠すための最も古典的な衣装でもある。
長いあいだ、Skurfbergの葡萄は偉大なワインとして語られてこなかった。
協同組合へ運ばれ、匿名の白ワインの一部となり、産地名としての明確な声を持たないまま消費されていった。
畑はそこにあり、古樹もそこにあり、味わいの可能性もそこにあった。
欠けていたのは品質ではない。
見る眼であり、聞く耳であり、そして市場が価値を認めるための、あの少し間抜けな儀式である。
転機は、南アフリカの古樹再評価とともに訪れる。
Rosa Krugerが古い畑を探し歩き、Eben Sadieをはじめとする新進気鋭の造り手たちが、この山のCheninに宿る尋常ならざる可能性に気づいた。
Sadie Familyの「Skurfberg」、Alheitの「Magnetic North」などは、この忘れられた土地が単なる辺境ではなく、南アフリカ白ワインの核心のひとつであることを示した。
行政上の分類や商業的な物語が先にあったのではない。
ワインのほうが先に、地名へ意味を与えたのだ。

Botanica Winesは、私がある種の偏愛を向けてきたこの地から、葡萄という恵みを受け取る造り手である。
海岸線から30km、標高500m地点にある葡萄畑は、当然のように無灌漑のブッシュヴァインであり、1950年代末から1960年前後に植えられた古樹が、低く、深く、乾いた大地に鎮座している。
その味わいも、Skurfbergの芯と真を捉えている。
分かりやすい豊満さはない。太陽の強さはある。果実の厚みもある。
しかしそれは、鈍重な豊かさではなく、削られた骨格の上に静かに積もる密度だ。
赤みを帯びた砂質土壌、脆く崩れやすい砂岩、平地を見下ろす時に感じる肌寒さ、海から届く風と潮、古樹の低収量と円熟したしなやかさ。
それらが渾然一体となり、熟度の中に塩気を、力の中に透明感を、乾いた風景の中に不思議な湿度を残す。
理性的な美と、感性的な美。
そのどちらかではなく、どちらでもある。
このワインの存在そのものが、Skurfbergの物語を、単なる「発見」ではなく、遅れてきた認識の物語として証明している。
そこに価値が突然生まれたのではない。
価値は最初から、古い株の根元に沈んでいた。
ただ、長いあいだ誰もそれを名前で呼ばなかっただけだ。
ワインの世界では、こうしたことがしばしば起きる。
沈黙していた土地があるのではない。
沈黙させていた市場がある。
地図の余白だったのではない。
地図を描く者の眼が、そこまで届いていなかっただけである。
名声とは、時に騒がしい。けれど偉大さは、もっと低い声で話す。
Skurfbergはその低い声で、南アフリカのChenin Blancがどこまで深く、どこまで端正に、どこまで土地の記憶を語れるかを示している。
忘れられていた山は、いまようやく見つかったのではない。
私たちの耳が、ようやくその声に追いついたのである。


