偉大なるボジョレー <ボジョレー特集前編>

毎年のことだ。9月に入ると、安堵と焦慮が入り混じった感情に駆られる。エアコンのスイッチを入れる頻度は減り、全開にした窓から新鮮な空気が室内を吹き抜け、けたたましい蝉の鳴き声は、心地良い鈴虫の音に変わる。美しい秋はもう目の前だ。だがこの穏やかな気持ちをいつも乱してくるものがある。そう、ワインだ。この季節に筆者がとあるワインに対して抱く想いは、主観的には至って冷静で論理的なはずなのだが、客観的に見ると酷く感情的に思えるだろう。理由ははっきりとしている。結局は、単純に、嫌なのだ。自分が愛してやまない偉大な産地から、心から愛せないワインが大量に生み出されることが。あと2ヶ月も経ったら、私がその地に対して抱く理想像が木っ端微塵に破壊して回られることに、心が激しく掻き乱されるのだ。そう、ボジョレー・ヌーヴォーというワインが、私の心から平穏を奪っていく。


ヌーヴォーの未来を問う

フランス・ブルゴーニュの南部に飛び地の様に位置するボジョレーは、おそらく日本においては、あらゆるワイン産地の中でもシャンパーニュに次いで知名度の高い産地だろう。少なくとも、ブルゴーニュやボルドーよりも、ボジョレーの名の方が浸透しているのは間違いない。ボジョレー・ヌーヴォー以降、ヌーヴォーと表記)のおかげだ。嫌味ではなく、素直に感謝したい。しかし、産地としては有名なボジョレーなのだが、「偉大な産地」としては限りなく無名に近い。無念である。筆者の様に真にボジョレーを愛する者たちの小さな声は、超巨大飲料企業による圧倒的な情報量のコマーシャル戦略によって、跡形もなくかき消されてしまう。


実は、ワインのトッププロフェッショナルの間でも、ヌーヴォー擁護派はたくさんいる。概ね、彼らの主張はこうだ。


「ボジョレーという産地の名を、広く一般に伝える役目を果たしている。」

「ヌーヴォーをきっかけに、ワインを好きになる人が出てくることが期待できる。」

「一年に一度でも、多くの人がワインを飲む日があるのは良いことだ。」


筆者自身の意見とは食い違うが、実に真っ当な主張だと思うし、彼らの言い分をリスペクトもしている。これらの主張が、その理想通りに実現しているのであれば、だが。


ヌーヴォーは確かにボジョレーの名を広めてくれているが、同時に貶めてもいるのではないか。大多数のヌーヴォーは、ボジョレーの本当の素晴らしさの、断片すらも表現出来ていない。果たして、そのようなワインをきっかけに生まれるワインファンが、どれだけいるのだろうか?筆者はこの点に関して、極めて懐疑的だ。一年に一度か数度、お祭り気分(日本人は、世界でも有数のお祭り好きだ)でヌーヴォーを飲むのが、ワインを飲む唯一の機会、となっている人々は相当多いと考えられる。そう言った人々がワインファンとして根付かないのは、ヌーヴォーの品質やコストパフォーマンス面に問題が多いと考えることが自然だろう。また、ヌーヴォーの全生産量の約半数が日本向けに出荷されている。つまり日本は、世界でも唯一と言って良いほど、ワインマーケティングの大きな部分をヌーヴォーに頼っている市場でもあるのだ。これは、明らかに歪んでいるのではないか。世界中の優れたワイン市場が、ヌーヴォーに頼らずに盛り上がっている中で、ヌーヴォーに「裾野を広げる」役割を重点的に担わせることが、本当に理に叶っているかどうかの検証を、少しは真剣に行うべきだろう。


ヌーヴォーに関して、良く考えてみていただきたいことがある。発酵という予測の難しい自然作用を利用して生み出されるワインに、極めて厳格かつ早急な「出荷日」が定められているということの意味についてだ。生産規模と、解禁日という絶対的なデッドラインを考えれば、出荷が遅れるというリスクを取れる生産者など、皆無に等しい。結果としてヌーヴォーは、人類が築き上げてきた醸造学の叡智がふんだんに注ぎ込まれ、時には化学薬品のカクテルさながらの液体として作り上げられる。ヌーヴォーを飲んで頭痛が頻発するのは、「飲み過ぎ」という以前の問題なのだ。お祭りワインとして楽しい記憶だけで終わるのであれば、ヌーヴォーは素晴らしいものだ。しかし、現実は異なっていることが多いのではないだろうか。葡萄という農産物の収穫を祝う祭りが、大量の工業製品によって賄われる。皮肉なものだが、これが現実だ。


筆者は、ヌーヴォーが真に収穫を祝うワインとしての役割を果たすためには、全ボジョレーワインの1/3にも達する生産規模の大幅な縮小と、解禁日の撤廃が必須だと考えている。21世紀の、サステイナブル社会にふさわしい祝い方は、今のような形では無いはずだ。

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