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新時代のサスティナブル茶園 <AMBA Estate>

NYでサーヴィスを学んだ私は、徹底した分業制というシステムこそが、絶対的に正しいと信じるようになっていた。


ソムリエである私が、皿を下げたり水を注いだり、裏に回って皿洗いをしたり、ワイングラスを磨いたり、トイレ掃除をしたりすることは、メキシコなどから文字通り命懸けで越境し、朝から深夜まで働き、自身は低水準の生活に耐えながら、母国の家族に仕送りする「アミーゴ」たちの仕事を奪ってしまうことに直結する。


他者に与えられた役割を奪わない。


それは少なくともNYのレストラン業界においては不文律であり、仲間たちへの最大のリスペクトであった。


ソムリエがワインを売るという自らの役割のみを全うし、売り上げを向上させることに注力すれば、集められたチップが回り回ってアミーゴたちを助ける。


それは、ちょっとした隙に皿を下げるよりも、遥かに効率が良く効果的な協力だった。


チップの配分比率は役割と技能によって決まるため、ソムリエである私とアミーゴたちの間には、倍以上の収入の開きはあったが、少なくともある程度の高級店や繁盛店であれば、アミーゴたちのNYでの生活や命を決定的に脅かすほど、彼らの収入が低いわけではなかったし、アミーゴたちの中には積極的に学び、経験を詰んで、より高度な役割と収入を与えられる者たちも少なからずいた。


そういうシステムの中で10年も生きていたからこそ、日本に帰国した時に、私は大きな「逆カルチャーショック」を受けた。


私が身につけてきたソムリエとしての技能と知識は、異国の中で、時に酷い差別も受けながら歯を食いしばって続けた、血反吐を吐くような努力の結晶だった。


そのスペシャリストとしてのプライドが、日本の当たり前を受け入れることを頑なに拒絶した。トイレ掃除をしたり、雑巾を片手に床磨きをしたり、顧客の瀉物を片付けることは、苦痛をこえて、侮辱だとすら感じた。


それからまた10年が過ぎた今になって思う。


私はなんと浅はかで傲慢だったのだろうかと。


私が信じていたシステムの良さは、その根底に機会の平等性と最低限の収入があってこそ成立していたものだと真に思い至ったのは、それほど昔の話ではない。


そして、私がスリランカという未知の国で見聞きしたものは、そのシステムこそが貧困層を徹底的に叩き潰しているリアルであった。

(以降、ワインとは関係が無いと思うかも知れない内容が続くが、実際にはワイン産業にとっても決して対岸の火事ではない。)



大きな袋を頭に引っ掛けた女性たちが、華麗な手捌きで次々と茶葉を摘んでいく。


お茶造りの象徴として印象付けられてきたこの光景の影に潜む巨大な闇を、私は知らなかった。


The Guardian誌による2023年の調査レポートには、茶摘みに従事する人々の日給は、1日に18kgもの茶葉を詰めば、ようやく1,000スリランカルピー(約500円)が保証されるように、2021年に政府が定めていたとある。


しかし同誌は、摘まれた茶葉に理不尽な難癖をつけて、収穫量を強制的に下方修正し、日給をカットする不正行為が横行しているとも報告している。


仮に一月に22日間、一切の下方修正無く日給が発生したとしても、22,000スリランカルピー(約11,000円)。


さらに、法律で定められた上限50%の様々な「天引き」の合計を超えた不正なカットも横行しており、収穫量の不正な下方修正と合わせて、実際の手取り月額は10,000スリランカルピー(約5,000円)をゆうに下回ることも常態化していると報告されている。


参考までに、筆者が道中で食べた最も安い食事の価格は、英語がほぼ通じない山中の超ローカル店で食べたランチセットで、550スリランカルピー(約275円)、首都コロンボでのちょっと上質なランチの価格が2,000スリランカルピー(約1,000円)、2時間のアーユルヴェーダにかかった費用が30,000スリランカルピー(約15,000円)である。


茶摘み従事者が、貧困だけではなく飢餓にも瀕していることに、疑いの余地はない。


新型コロナ禍の影響と、2022年の深刻な外貨不足を発端に発生した強烈なインフレーションへの対策として、2024年の6月から、政府が茶園に対し、茶摘み従事者の最低保証日給を1,700スリランカルピー(約850円)へと引き上げるように命じたが、茶製造のコストが約45%上昇することによって、紅茶製造のライバルであるインドやケニアに対する競争力を失うと、猛反発にあっている。


仮に、下方修正無く日給1,700スリランカルピーで22日間働き、法令通りの上限50%天引きとなったとしても、手取り月給額は18,700スリランカルピー(約9,350円)となるため、茶摘みがスリランカ社会における最底辺の仕事であることも、茶摘み従事者の生活が極限を越えて苦しいままなのも変わらないだろう。


超大量生産と超大量販売によって物の価値を下げ続けた結果の歪み、そしてその煽りのみを誰よりも受ける茶摘み従事者たちの苦難は、修正不可能とすら思えるほどに深刻だ。


過酷な肉体労働であるにも関わらず、全く稼げない茶摘みという仕事を選ぶ人の数は激減しつつ、従事者も高齢化した。


実際に、通年の茶製造を可能とする唯一無二のテロワール、イギリスの産業革命によってもたらされた高性能かつ破格の耐久性をもった機械、奴隷制度時代から世襲的に積み上げられてきた労働者たちの技術と知識によって、19世紀半ばから20世紀半ばまでの約100年間、世界一の茶生産量を誇ったスリランカは、現在世界第4位となっており、いつ第5位以下に滑り落ちてもおかしくない状況だそうだ。



しかし、この現状に一石を投じるべく立ち上がった、先進的な茶園もある。


その一つが、筆者がスリランカ紅茶の聖地ウバで訪問した、AMBA茶園である。


AMBA茶園では、日雇いを廃止し、全ての従業員を様々な社会保障付きの月給制の社員契約で雇用した上で、一部のディレクター職を例外に、茶製造部門における分業制も廃止した。


AMBA茶園に就職してから最初の6ヶ月間は、ジュニア・ティー・クラフターという役職が与えられ、茶製造に関わるあらゆる知識を学びつつ、AMBA茶園が独自に造り上げたトレイサビリティ・システム(茶摘みから製茶までのあらゆる工程を詳細に記録し、データ化する仕組み)に沿って、実際に全ての工程を自身が行いながら、茶製造の技術を習得していく。



その後、6ヶ月間のシニア・ティー・クラフター期間を経て、就職から1年後にはティー・アルティザンという役職に就く。


茶製造部門は、ティー・アルティザンたちをリーダー格とした4つのチームに分かれ、全てのチームメンバーが、茶摘みから製茶までのあらゆる工程を共に行う


さらにティー・アルティザンたちには、品質をより高めるために、自身で創意工夫を行うという役割も与えられ、個々の責任のもとに造られた超小ロットの茶を、プロダクトマネージャーがロットナンバーだけが明かされた状態でブラインドテイスティングをし、最終的なブレンド比率を決めつつ、問題のあるロットが出た場合は、トレイサビリティーデータにアクセスをして、そのロットを製造したティー・アルティザンに改善のためのアドヴァイスを行う。


トレイサビリティが高品質の理由を可視化し、再現性をもたらすとプロダクトマネージャーは力強く語る。



2010年には5人しかいなかったティー・アルティザンは、現在100人を越えたそうだ。


もちろん、この100人という人数は、AMBA茶園という小規模茶園が抱えきれる数ではない。


そう、AMBA茶園が掲げる本当のヴィジョンは、このシステムを理解し、実践してきたティー・アルティザンたちが、他の茶園も同様に改革し続けることによって、最終的にスリランカの茶産業全体をサスティナブル化することにあるのだ。


しかし、どれだけ素晴らしいシステムであっても、ビジネスとして成立しなければいずれ破綻してしまう。


その点においても、AMBA茶園には抜かりがない。


AMBA茶園は、高品質だけでは安定した販売を続けるには不十分とし、優れたストーリーこそが販売力を高めると考えている。


そして、そのストーリーは2つの軸によって構成されている。


一つは先述してきた労働者の環境改善やトレーニング体制を含む社会的持続性


もう一つの軸は、ワイン産業では既に世界的スタンダードとなりつつある、環境的持続性だ。



実際にAMBA茶園では、全ての茶畑をオーガニック化(認証も取得)しつつ、数種のミミズを用いて土壌の有機物を分解し、豊かな天然肥料とするVermiculture(ミミズ堆肥)や、多作栽培の一種であるIntercropを導入。茶の樹にとって好ましい日陰をもたらしつつ、湿度調整や土壌の窒素濃度調整の役割も果たすシェイドツリーによって、農薬ではなく、自然環境そのものが茶畑を調和へと導くように、緻密な畑作りを行なっている。


さらに、ゼロカーボンやゼロプラスティック(下の写真はプラスティックを完全に廃した特殊なティーバッグ)などにも取り組んでおり、まさに全方位的なサスティナビリティへと邁進しているのだ。



そんなAMBA茶園の造る茶やスパイス、ジャムなどのプロダクトは、スリランカのスタンダーと照らし合わせてみれば、確かに少々高価な部類に入る。


しかし、我々はいいかげん学ぶべきなのではないだろうか。


我々消費者が、生産者に「清貧」を求めた先にあるのは、産業の末端にいる人々の、信じがたい苦しみであることを。


そして、本来その価格を問題なく支払えるはずの人々が、生産者に対して一方的に押し付ける低価格が、その産業そのものを破滅的なアンチサスティナビリティへと陥れるという事実を。

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