自然農法の真理 <後編>

私は、昨年の春からこの冬の間中ずっと思い悩んでいたことがあった。


「なぜ人間は、野に舞う蝶や、空飛ぶ鳥のように自由に生きることができないのか…。」


その悩みに答えを示してくれたのが、福岡正信氏だ。


自然農法の大家、福岡氏の遺した数々の言葉。

それらは、表面的には非常に宗教色が強く思えるかも知れないが、その本質は大きく異なる


氏の鋭く、時に断定的な言葉使いを、断片として切り取ってしまうと、真意を読み誤ることもあるだろう。


よって、以降の内容を、宗教的という目線から考えないことを、強く推奨する


福岡氏の言葉も、本意としては様々な宗教を否定するものでは決してなく、氏の言葉をもとに書かれたこの記事もまた、宗教を否定する類のものでは一切ない



真理

福岡氏の「無の哲学」では、仏教における「空」の思想をもとにした、氏の思想が語られている。


福岡氏は著書で何度も「真理は一つだ」(絶対的真理)と言っているのだ。


その真理とは。


絶対的真理は、無力どころか、架空の概念を一時的に満足せしめるに役立つのみの科学的真理よりも、より強力に、現実の大地に立った永遠の指針となりうる真理である。

絶対的真理は、科学的真理が、現象界内でのみ通用する真理であり、その価値は時と場合で変転してゆく、その矛盾、欺瞞を常に批判し、破砕し、永遠に訂正する必要のない不変不動の強力な灯台となっている。」


「ソクラテス、キリスト、釈迦、世界の聖者と呼ばれる人たちは、期せずして大悟(回心)、現象界の自己を否定した“自己を知る”に出発し、真実の“自己に還り”、魂のふるさと、善、慈悲、聖愛に目覚めることを人々に呼びかけている。真理は一つである。到達した世界の根源は洋の東西を問わず時代を超え同一であり寸分のすきもない。」


真理は一つであり多くの流儀、流派、諸説があってはならない。一つの真理がわかれば、この世の一切は万華鏡で照らし出されるように一目瞭然、あらゆる疑問、矛盾、人間の苦悩が氷解するのである。」


真理が把握されたときは、“人間はいかに生くべきか”が当然の帰結として明確に浮かび出るはずである。」


「人間が自然に合一するとは、人間が自然の中に流れる真理の泉に身を浸すことである。」


(すべて「無の哲学」より)



著書の中で、真理を把握し神性をもつに至った人としては、釈迦、達磨、道元、老子、キリスト、マホメット、ガンジー、ソクラテスなどが挙げられている。


福岡氏にとっての「真理」とは、「空」であり「無」である。


そして、「空」であり「無」であるからこそ、真理は一つしかない、というのが、氏が至った大吾の境地なのだ。




神性

「キリスト教だ、仏教だ、イスラム教だなどとみんなが勝手に名前をつけて、いろいろな恰好で拝んだり祈ったりすることがすでに根本的な間違いであって、それは神でも仏でもない。」

(「自然を生きる」より)



「キリストも釈迦も、いかなる国の宗教界、思想界を問わず、聖者と言われるような人が把握した真理はみな同じただ一つの真理であり、神の子と名づけようと、仏陀、真人、仙人と呼ばれようと、その到達した世界は同じ世界であった。神は宇宙に瀰漫する。全世界の本姿が神である。人間の本姿が神である。」


「人間が振り返って、無知の智に還れば、我が手に抱く、無心の嬰児が神であるあることを知るのである。無心になれば、自己もまた神となる

人間はみな、過去において一度は神であったのである。神であった自己を忘れ、真の自己から離れて、虚像の自己を観念的に造り上げた。真人から俗人に自ら転落したのが人間である。」


「神は思考の彼方にあるのではなく、思考以前において、簡単に言えば、考えなければ神に会うことができる。手っ取り早く言えば、無心の人間は神であり、思考のない嬰児は神を知る人間であり、神の一人でもあった。」


神、仏は自己であり、その内容は真理の充満である。」


(すべて「無の哲学」より)



福岡氏にとっての「神」とは、まさに「無の哲学」そのものである。


それは、自然であり、森羅万象、絶対界に生きるすべてのものであり、さらに、絶対な真理を悟ることができれば、人間も神になれると語っている。


「無」=「神」と氏は説いているのだ。




悟り

「無」、「真理」、「神」

そしてそこにある「悟りの世界」とは。


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