善し悪しは紙一重?葡萄→ワイン「不思議なチオールの香り」

このご時世、家で読書をする機会が増えた方も多いだろう。最近読んで感銘を受けた本を一冊、ワインとともに紹介したい思う。


かれこれ10年くらい前だろうか、勉強の為に古本屋でワイン本を片っ端から漁っていた頃に一度手に取った本があった。いつものようにパラパラとページをめくり流し読むが、余りに専門的な内容であったので「今の自分にはまだ早い」と心の中で早急な"買わない"の判断を下したのであった。


数年の時を経て、昨年1度目の緊急事態宣言が明けた頃、長い自粛生活にも痺れを切らしていた時に「久しぶりにうちでワインでもどう?」と先輩の家に招かれた。本棚に並んだものを眺めていると、懐かしい背表紙が目に入った。


「これ...」


その本に興味を持った私に先輩は、"自分がこの業界で働く上で原点ともいえる大切な本"であることを教えてくれた。

再び巡り会ったのも何かの縁と思い、改めてじっくり読んでみたいと先輩に頼み込み、その本を借りて帰った。


今なら少しは理解できるだろうか。

そんな期待を込めて、私は終始読み耽るのであった。

その本がこちら、

「きいろの香り ボルドーワインの研究生活と小鳥たち」




ボルドー第二大学醸造学部の名教授であり、「白ワインの魔術師」として広く知られる故デゥニ・デュブルデュー教授のもとで働いた日本人醸造学者、富永氏の著書である。


余談ではあるがこの本を貸してくれたその先輩も、同大学醸造学部認定のテイスティングコースDUADの卒業生であった。


著者の故富永敬俊氏は、まだワインの香り成分などの多くが科学的に解明されていない30年以上前からフランスへ渡り、その最前線で日本人として研究を重ねた。主となる研究内容は白ワインの醸造やその香り成分、特に「チオール※1」に関して。常に化学的な視点から切り込み、ときに師であるデュブルデュー教授のユーモアある人柄や哲学にも触れながら、独創的なアイディアと研究で成功や失敗を重ねていく日々が描かれている。


その一冊には「今尚も決して色褪せる事のない確かな情報」が詰まっていた。

いくらか難しい表現などもあるのだが、ソムリエ目線から見た、面白かった内容を少し噛み砕いて紹介したいと思う。


ワインと科学は常に遠いようで密接な関係といえる。しかし香りの原因物質を科学的に紐解いていくような事は、我々には到底出来ない。科学者の方々のそのような研究結果は、いつでもソムリエの知的好奇心をくすぐる。


最も興味を惹かれたのはやはり本書の研究の主となる、チオールの話。この化合物が香りの主体となるワイン(ソーヴィニョン・ブラン種に代表される)について。

例えばブラインドでワインを飲み、品種を探るときに最大のヒントとなるあの香り。具体的にはグレープフルーツパッションフルーツグァバなどのフルーツ香やカシスの芽ツゲなどの清涼感を思わせるグリーンなアロマであり、これらにチオール化合物が大きく貢献しているとされる。

ここで改めて驚いたのは、ワイン中では捉える事が出来るあの典型的な香りは、発酵前の果汁の段階ではほとんどしないという事だ。


ではあの香りはどこからくるのだろうか?


"ルトゥール・アロマティック"「戻ってくる香り」

同大学元教授であり近代醸造学の確立者としても知られる故エミール・ペイノー博士の記したこの言葉をヒントに研究は更に動き始める。それは俄に信じがたい事でもあるが収穫期少し前のソーヴィニョン・ブランの粒を口に含み、潰して種と皮を吐き出すと数秒後にワインのような香りが爆発的に現れるというものであった。


「果汁や果皮の成分が口中の何かと接触し、反応して...? 」

ほんの小さな手掛かりであるが、多くの研究はいつも何かしらの「仮定」から始まり、展開していく。

その結果、あの華やかな香りの原因物質は、葡萄の段階では前駆体物質(本書ではプレカーサー※2と言っている)として存在しているということが突き止められた。プレカーサーは果汁や果皮に潜んでおり、アルコール発酵を経て酵母によって香りを放つ状態になるということが証明されるのである。

もとの素材からはいっさい香らず、ワインになると別人のような色気を放つ不思議なその果実。葡萄はやはりどこまでも神秘的なフルーツである。


更に付け加えると、こんなことも記されていた。一般的にソムリエが知っているマセラシオン・ペリキュレール(スキン・コンタクト)という醸造技術に関して。

葡萄の段階で既にフルーティな香りを放つアルザスなどのアロマティック系品種※3 などでは発酵前の果汁と果皮を一定期間低温で接触させて、果皮に含まれている香り成分を果汁に移す作業であり、これが従来の意味とされる。

一方で香りの殆どがプレカーサーして存在するソーヴィニョン・ブランに対しては、その「香りの素」となる物質をより多く果汁に取り込ませる特殊な作業といえる。特に3MH※4 は果汁よりも果皮に多く存在するということが後の研究で発表され、この技術のソーヴィニョン・ブランへの高い優位性がしっかりと裏付けられるかたちとなった。

他にもプレカーサーすらも多く含まないノン・アロマティック品種などのケースでは、目的やその効果は変わるはずである。

醸造テクニック一つをとっても科学的な視点から、その用途はそれぞれ違った捉え方が出来るという面白い見解であった。


例えば知識として漠然と知っている3MHなどの科学用語。その目には見えない物の性質を分析し、いかに理解してワイン造りにまで活かしていくかは研究者と醸造家にとっては正に腕の見せ所であるといえるのではないだろうか。


ソムリエはワインの香りを様々なものに例えるが、その芳香の原因物質は未だ科学的に解明されていないものも多い。

このチオール類以外にもアロマティック系品種に代表されるテルペン類をはじめ、各品種、産地特有に生成される化合物など、様々な要素がワインの香りを構成する要因とされるが、更に長い話になるのでここではあえて割愛させていただく。


今回のこのチオールだけでも膨大な情報量であり、一つ一つを整理して理解していくには時間を有する。ワインと科学の世界の関係が深いことを改めて思い知った。また、文章になった研究の過程を読む事は簡単な事であるが、最後に答えを導き出すまで、実際にはきっと想像を絶する歳月を費やし、成功と失敗を繰り返してここに辿り着いたのだろうと推測される。勿論その長い道のりや苦悩も本書では描かれているので、是非皆様にもご一読いただきたい。


一旦話題を変えて、今日のトピックに合った2種類の白ワインを紹介したい。

どちらも典型的なボルドーブランのブレンドであるが、所謂新旧産地の飲み比べ。





(写真左のワイン)

生産者:シャトー・タルボ カイユ・ブラン

葡萄品種:ソーヴィニヨン・ブラン70% 、セミヨン30%

生産国:フランス

生産地:ボルドー地方、メドック地区

ヴィンテージ:2017

インポーター:日本リカー株式会社

参考小売価格:¥6,000


メドック地区、サン・ジュリアンの格付けシャトーとして有名なシャトー・タルボが生産する白ワイン。爽やか軽快系よりも、コクありボルドーブランの典型的スタイルで2017は葡萄の熟度が極めて高く、香りや味わいの凝縮感がしっかりと感じられる。パッションフルーツやマンゴーなど南国のフルーツや花の香りはアプローチャブルな印象、樽熟成のニュアンスもしっかりとけ込み味わいの骨格を成す。



(写真右のワイン)

生産者:ソレンバーグ ソーヴィニヨン・ブラン セミヨン

葡萄品種:ソーヴィニヨン・ブラン80% 、セミヨン20%

生産国:オーストラリア

生産地:ヴィクトリア州、ビーチワース地区

ヴィンテージ:2019

インポーター:株式会社ダウンアンダー

参考小売価格:¥7,000


こちらはオーストラリアのヴィクトリア州より。私も一度訪れた事のあるビーチワースへは、メルボルンから車で約5時間、標高500m程を登った州の北東に位置するエリア。隣のニューサウスウェールズ州との境界線に程近い小さな田舎地区であるが人気の生産者がひしめき合い、国内有数のワイン産地として知られる。

レモンやグレープフルーツなどの柑橘を中心にフレッシュハーブなどグリーンノートの清涼感漂うアロマ。口中ではソーヴィニョンの溌剌とした酸味を感じ、質感はクリーミーであるが樽のニュアンスは控えめ。発酵槽から古い大樽を使用している為、適度な酸化が促され、しつこくフルーティに仕上がるのを抑制されているイメージだろうか。

同生産者は他にも素晴らしいガメイやシャルドネをこの地で産している。一貫して洗練されたスタイルは時よりブルゴーニュっぽさすら連想させる。このスタイリッシュな仕上がりこそがビーチワースの真骨頂といえる。


両者を比較すると、品種構成こそ似ているが互いに全く対象的なスタイルと言える。

エキゾチックでパワフルなソーヴィニョン代表の前者に対し、温暖な南半球特有のトロピカルな果実味先行型のワインを連想される方も多いだろうが、良い意味で期待を裏切られる清楚さがある。

どちらもバランスの良さがある中に、品種の個性をしっかりと感じられるワインである。


最後に一つ、本書より家庭でできる面白い実験についてもご紹介したい。次回白ワイン(特ソーヴィニョン・ブラン)をテイスティングする際にワインを少し注いだそのグラスに10円玉を2,3枚入れてみて欲しい。ワインによっては品種特有のアロマはたちまち消えて香らなくなるという、面白い現象が起こる。(グラスには樽香などだけが残る)

これは硫黄系化合物であるチオールが金属イオンの中でも特に銅イオンと結合しやすいという性質を利用したもので、チオール含有量が多いワインほど顕著に現れるということである。


この研究が行われる以前は、シャルドネとソーヴィニョンを人間の嗅覚によって区別するのは簡単に出来ても、それをソーヴィニョン・ブランたらしめる理由とは?という観点から「香りを捉える」研究は皆無であったらしい。

では何故ワインにチオールが発見されていない当時に、チームは「ソーヴィニョン・ブランの香りはチオールの仲間だ」というただ漠然とした希望を抱けていたのか。

それは、経験として、

"銅が主成分であるボルドー液を過剰散布したソーヴィニョン・ブランの畑から造られたワインは香りが乏しい"という事実を知っていたから、という事であった。正に長年ボルドーに居を構える研究者だからこその発想といえる。

経験論や推測だけでは時に信憑性に乏しいので、動かぬ証拠をもとに、科学的に立証していく。まるで難解な事件に遭遇する探偵小説のような物語であるが、この事実もまた研究の原点となる希望の光であったと言えるのだろう。


人間が文化としてワイン楽しんできた歴史はとても古いが、科学的な視点からの研究は新しく、これからもたくさんの発見があるのかも知れない。それもまたワインの謎が深いゆえの、面白さである。



※1 チオール

水素化された硫黄を末端に持つ有機化合物で、メルカプタンとも呼ばれる。香りとして知覚できる閾値がとても低く、少量でも人間の嗅覚には大きな影響を与えるとされる。特有のガス臭さや腐ったたまねぎ、汗の匂いなどとも表現されるが必ずしもマイナスなイメージのものばかりではなく、例えば白ワインのフルーティな香りへも起因するとされる。


※2 フレーバー・プレカーサー

科学分野で使われる用語。不活性の物質が物理的、科学的、酵素的変化を受けて活性状態になる過程で、その前の段階の不活性物質のこと。


※3芳香性による一般的な品種の分類

①アロマティック品種

芳香性の強い品種、あるいは発酵前にワインと同じ特徴的な芳香を持つ品種。リースリングやミュスカ、ゲヴュルツトラミネール、ヴィオニエなど。

②セミ・アロマティック品種

ソーヴィニヨンブランなどの発酵前には品種の特徴的な芳香が出ていないもの。

③ノン・アロマティック品種

もともと芳香性が弱く、発酵後も強くない品種。シャルドネ、ミュスカデ、甲州など。


※4 3MH

白ワインに含まれる代表的なチオールの一種、メルカプト・ヘキサノールのこと。メルカプト・メチル・ペンタノン(4MMP)やメルカプト・ヘキシルアセテート(3MHA)と共にソーヴィニョンの香りを代表する揮発性チオールであり、グレープフルーツやパッションフルーツの香りなどと表現される。後に日本の甲州にも含まれる事が特定され、有名なメルシャンの甲州きいろ香が開発される手がかりともなった。


<ソムリエプロフィール>

丸山 俊輔 / Shunsuke Maruyama

Restaurant Ryuzu

Chef Sommelier


1988年 埼玉生まれ。

2008年 都内のフレンチレストランでサービスとしてのキャリアをスタート。

2011年 ソムリエ資格を取得。

2014年 渡豪、二年間シドニーやメルボルンなどシティのレストランでソムリエとしての勤 務、南オーストラリア州のワイナリーで働く。

2016年 渡仏、パリの星付きレストランで一年間研鑽を積む

2017年 帰国後より現職。

オーストラリア、フランスと計三年間の海外滞在期間中は語学取得に励み、現地や近隣諸国のワイン産地、ワイナリー訪問などにも日々足を運ぶ。国内の食通のお客様のほか、海外からも毎日たくさんのゲストを迎えるRyuzuでは経験、スキルを活かし現在も日々研鑽中。




<Restaurant Ryuzu>

六本木交差点からほど近くにあるフレンチレストラン。オーナーシェフの飯塚隆太により2011年オープン。2013年よりミシュラン二つ星。