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誰がために鐘は鳴る <カタルーニャ特集:プリオラート編>

世界を旅していると、自分がその場所にいる違和感を全く感じない街に出会うことが稀にある。異国であるはずの場所が、生まれ故郷のように肌に、心に、自然と馴染むのだ。街角から聞こえてくる色とりどりの音が、耳あたりの良い大阪の言葉にすら聞こえてくるのだ。


筆者にとっては、ニューヨークとバルセロナが、そういう街である。


心地良さの理由は、はっきりしている。ニューヨークにも、バルセロナにも、反骨精神が強固に根付いているからだ。自由と尊厳を求める人々のエネルギーが巨大な渦となって、街全体を満たしているからだ。だからこそ、大阪の下町で、社会的マイノリティーとして生まれた筆者は、その場所をホームと感じることができたのだと思う。


長らく訪問は叶っていないが、久々に心の故郷の一つに、想いを馳せよう。


騒がしく、慌ただしく、エネルギッシュで、優しく、何よりも美しいバロセロナに。

そして、バルセロナを囲む、カタルーニャ自治州という驚異的な魅惑な放つ偉大なワイン産地に。



カタルーニャの反骨精神

かつて地中海の覇者として栄華を誇ったカタルーニャ帝国は、15世紀以降、苦難の道のりを歩んできた。


地中海貿易の覇権をオスマン帝国とベネチアに奪われたのと時をほぼ同じくして大航海時代が始まり、地中海でも、大西洋でも、巨大貿易網から蚊帳の外となってしまったカタルーニャは、1,479年のスペイン統一によって、ついに政治的独自性も奪われてしまった。さらに、アフリカ大陸における植民活動からの除外が追い討ちをかけるように、カタルーニャはますます衰退の一途を辿っていた。1,659年には、フランス・スペイン戦争の落とし前として、北カタルーニャがフランスへと割譲され、1,701年から始まったスペイン王位継承戦争ではスペイン王家に対して反旗を翻したが、1,714年にバルセロナが陥落し、地方自治が認められてきたカタルーニャの政府と議会は解体、言語(カタルーニャ語)を奪われる、という最も残酷な文化破壊を受けるに至った。


しかし、追い詰められたカタルーニャ人は持ち前の反骨精神を発揮し、まずは農業で財をなし、続いて商業と綿織物工業が隆盛を極め、18世紀後半には、スペインでも筆頭格の先進的経済地域にまで成長した。19世紀前半のスペイン産業革命時も、多くの都市が外資に頼る中、カタルーニャは地元資本で突き進んだ。19世紀中頃には、カタルーニャ語とカタルーニャ文化を復興させるルネサンス運動が興り、カタルーニャの誇りがいよいよ戻ろうとしていたが、20世紀に入ってからも、動乱の日々が収まることはなかった。


1,909年の市民運動に対する政府軍による厳しい弾圧、1,923年から1,930年まで続いたミゲル・プリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権が、カタルーニャのナショナリズムを強力に刺激したことにより急進化、1,932年には自治政府と自治憲章が承認されるに至ったが、1,936年のスペイン内戦によって、すぐさま自治権は撤回され、1,939年以降のフランシスコ・フランコ・バーモンデ政権下では、再びカタルーニャ語とカタルーニャ文化に対する無慈悲な弾圧を受けた。この文化的弾圧は、フランコが1975年に死去し、民主的な新政権によって1,979年に自治憲章が復活したことによって、ようやく終焉を迎えたのだ。


その間も粘り強く自尊心を保とうと、カタルーニャは戦ってきた。第二次世界大戦で完全に疲弊したものの、1,960年代から一時的に経済は回復。しかし、ようやく1,979年に自治権が完全に戻ったと同時に、第二次オイルショックが発生、カタルーニャ銀行の倒産によって、バルセロナは失業者であふれた。


この時も、カタルーニャ人は反骨精神を発揮した。1,985年頃にはカタルーニャ経済は立て直され、1,986年にスペインがECに加盟した際に、外国企業の約1/3がカタルーニャに進出した要因となり、1,992年にはバルセロナで夏季オリンピックも開催された。


2,000年代に突入してからは、ナショナリズムが再興し、新たな自治憲章をめぐって中央政府と法廷で争ったり、大規模な独立デモが発生したり、独立を問う住民投票が行われたりと、カタルーニャは相変わらず混乱している。


中世以降のカタルーニャの歴史を、書き連ねた理由はただ一つ。奪われ、取り戻し、また奪われても立ち上がり、抑圧されれば必死に抵抗する。カタルーニャの歴史を形作ってきた、カタルーニャ人の精神的性質を知らなければ、カタルーニャ州というワイン産地で何が起こってきたのかを理解することは難しいからだ。



プリオラートの変遷

カタルーニャ特集前編となる本編では、カタルーニャ自治州の最重要産地の一つ、プリオラートに焦点を当てる。


バルセロナから南西方向に車で2時間ほど走ると、モンサン山脈の南側斜面に広がるプリオラートに到着する。葡萄畑は、標高100m付近から800mを超えるエリアにまで広がり、時折現れる車一台がギリギリ通れるような細い山道は、恐怖心を覚えるほど曲がりくねりながら、アップダウンを繰り返す。まるでジェットコースターのようだ。葡萄畑に着くと、まっすぐは立っていられない。傾斜角が40度を超えるような急斜面だらけの畑では、気を抜くと命に関わる怪我をする。プリオラートを初めて訪れた人なら、誰もが真っ先に思うだろう。よくこんなところに、これだけの数の葡萄畑を拓いたものだと


プリオラートで本格的なワイン造りが始まったのは、13世紀中頃。1,194年に、カソリック系修道会のカルトジオ会(*1)に属するスカラ・デイ修道院が建設され、赴任した修道士たちは葡萄畑を拓くことに興味をもった。やがて、葡萄栽培とワイン醸造が始まり、最初のワインは1,263年に誕生した。修道院主体のワイン生産は長らく続いたが、1,835年にフアン・アルバレス・メンディサバル首相が発令した永代所有財産解放令(通称メンディサバル法)によって、修道院の所有地は没収され、小規模農家に分配された。19世紀末にフランスをフィロキセラが襲った際には、代替品としてプリオラートからも非常に多くのバルクワインが(主にボルドーに)送られたが、プリオラートも1,893年からフィロキセラ禍に見舞われ、1,910年までにはほぼ壊滅状態に陥った。平地の多いモンサン(プリオラートを取り囲むように位置するDO)はまだましだったが、山間の急斜面にばかり畑が拓かれていたプリオラートは、そのあまりに劣悪な作業効率故に、復興もままならなかったのだ。

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