2023年10月26日7 分

Vouette et Sorbée 後編 ~シャンパーニュのその先へ~

後編となる本編では、シャンパーニュ地方の未来が様々な角度から見え隠れする内容となる。

決して良いことばかりではないが、それでもシャンパーニュ地方は先へ先へと進んでいるのだ。

コトー・シャンプノワ

かつては珍品の類であり、価格もギリギリ相応と言えるものだったコトー・シャンプノワ(シャンパーニュ地方で造られる非発泡性ワインで、品種は主にピノ・ノワールとシャルドネ)が大きな転換期を迎えている。

ここにも温暖化の影がちらつくが、コトー・シャンプノワをリリースするシャンパーニュ・ハウスがかなり増えたのは間違いない。

流石の技術力もあってか、品質的にはなかなか優れたものが多いが、その高価格は(少なくとも個人的には)許容できる範囲を超えている。

理由は明確だ。

シャンパーニュはそもそも無敵の存在であるが、コトー・シャンプノワは違う。

スパークリング・ワインというカテゴリーにおいて、世界各国の技術水準が大幅に上昇したにもかかわらず、極上のシャンパーニュに並び立つワインは、このカテゴリー内には、いまだに存在していない。つまり、無敵ということだ。

それがどのようなフランス他所のクレマンであっても、イタリアのフランチャコルタであっても、スペインのカヴァ、ドイツのヴィンツァーゼクト、南アフリカのMCC、南イングランドのブリット・フィズ、アメリカ・カリフォルニアやオーストラリア・タスマニアのスパークリングであっても、シャンパーニュの最高到達点には及ばない。

そして、シャンパーニュが無敵であり、孤高の絶対王者であるなら、どれだけ価格が高騰しても、「仕方ない」と納得せざるを得ない。

残酷で無慈悲だが、市場原理とは元からそういうものだ。

しかし、コトー・シャンプノワの場合は話が異なる。

隣人のブルゴーニュはもちろんのこと、同国内にはアルザス、ヨーロッパの他国ではドイツ、そしてニュー・ワールド諸国も含まれば、あまりにもライバルが多い

純粋にコストに対する品質水準で見れば、コトー・シャンプノワは世界の上位には「まだ」入らない。

「まだ」としたのにも、もちろん理由がある。

コトー・シャンプノワが、現時点ではあまりにも未完成なワインだからだ。

〜エロイーズの話〜

私はボーヌ(ブルゴーニュ地方)でワイン造りを学んだから、コトー・シャンプノワには思うところが沢山ある。

特に問題だと感じるのは、コトー・シャンプノワに使われる葡萄が、あくまでもシャンパーニュ用として育てられていること、そして、シャンパーニュのやり方で醸造されていること

優れたシャンパーニュ造りと、優れたスティル・ワイン造りとでは、方法論が違うのは当たり前

だから、コトー・シャンプノワの品質を高めるなら、畑仕事の時点から違う考え方をする必要があると思う。単純にブルゴーニュと全く同じ仕事をすれば良いということでは無いけど、(シャンパーニュとコトー・シャンプノワを同一線上で考えている)今のままではレベルが上がってはいかない。

価格に関しては、父ともしょっちゅう口論になる。

どうせ極少量しか造らないんだから、もっと低価格でリリースさせて欲しいって説得しているけど、父には父なりの事情や考えもあるみたいで。

〜ベルトランの話〜

エロイーズとコトー・シャンプノワの話をしてくれて、君の率直な意見を聞かせてくれて、本当にありがとう。

価格に関しては難しい問題だ。

現実的な部分では、畑の地代を兄妹に払わないといけないから、なかなか下げられない、というのはある。

でも、他の理由も確かにあるんだ。

このまま気候変動が進めば、いつかこの地でシャンパーニュを造れなくなる可能性も十分にある。そうなった時、シャンパーニュ地方ではコトー・シャンプノワを造るしかなくなるだろ?

シャンパーニュ地方が、いつかの未来にスティルワイン産地となった時、そのワインの価値が低いものとなるのは、なんとしてでも避けなければならない

だから、娘たちの世代が担っていく未来のことを考えて、価格に関しては慎重になっているんだよ。不用意に価値を下げてしまわないようにね。

ところで、エロイーズが造った「l’entre deux」っていうコトー・シャンプノワは飲んだかい?

(あまりにもレアなため、テイスティングはできていない。)

英語だと、「二つの間」とか「中間」とか言う意味なんだけど、素晴らしいよ。

私が頑固なものだから、畝と畝の間にある葡萄から、エロイーズがコトー・シャンプノワを造ったんだ。(裏取りのための事後リサーチはしたが、情報が一切なかったため、「畝と畝の間の葡萄」が元からあったのか、エロイーズが植樹したのか、という部分に関しては不明であることをご了承いただきたい。)

シャンパーニュとブルゴーニュの「間」っていう意味も、含ませていると思う。

Champagne Vouette et Sorbée

レコルタン・マニピュランという言葉は、実態を現すものとしては死語となりつつあると感じているので、あえて小規模生産者と括らせていただくが、スペースとキャッシュフローの都合から、リリースが早い傾向にある小規模生産者のシャンパーニュは、大きく二つのタイプに分かれる。

リリース直後から美味しく楽しめるタイプと、新ヴィンテージを入手してから数年は忘れておくべきタイプのものだ。

Champagne Vouette et Sorbéeは、痛快なほど明確に後者のタイプに属している。

国内、国外ともに非常に入手困難なシャンパーニュとなっているため、手にしてすぐに飲みたくなる気持ちは良く分かるが、ここはどうか、グッと我慢していただきたい。

数年後には、その忍耐に極上の体験でもって答えてくれるはずだ。

本レポートの最後に、イベントでテイスティングしたシャンパーニュを全て記録しておく。

Cuvée Fidèle Brut Nature V14 Magnum

ピノ・ノワールが植樹された複数区画のアッサンブラージュによる、Vouette et Sorbéeのスタンダード的キュヴェがフィデル。2014年ヴィンテージのマグナムは、柔和で開放的なアロマと果実味が、ベルトランならではの魔法のような浸透力で、体の隅々まで行き渡る。まだまだ十分な伸び代を感じさせるほどのフレッシュ感を保っていたが、マグナムボトルということもあり、まさに極上の一言。

Cuvée Blanc d’Argile Brut Nature V14 Magnum

単一区画Biauneから造られるブラン・ダルジルは、シャルドネ100%のブラン・ド・ブラン。柔和なフィデルとは対照的な、フォーカスの強いシャープな味わいが魅力だ。こちらも2014年ヴィンテージのマグナムとなり、強い旨味のウェーブが押し寄せてくる、見事な味わいだった。グリップの効いた強力な余韻も素晴らしい。

Textures Brut Nature V13

単一区画Fonnetに植樹されたピノ・ブランからなる、異色のキュヴェがテクスチュール。酸化抑制に最大限のケアを施した、巧みな長期アンフォラ熟成とマセレーションによって、フラットになりがちなピノ・ブランから、豊かな「テクスチュール」が引き出された大傑作シャンパーニュだ。2013年ヴィンテージのこの一本は、熟成によって粘性を増した質感、奥深く滋味深い味わいがたまらない。やはり、彼らのシャンパーニュは寝かせてから飲んだほうが良いと確信させられた。

Cuvée Fidèle Extra Brut V11

フィデルの2011年ヴィンテージにもまた驚かされた。12年の時を経てもエネルギーが十全にみなぎり、ピノ・ノワールらしいふくよかな果実味が、重低音のように響き渡る。全方位に開放されたアロマ、わずかに顔を見せ始めた熟成の妙、じわりと染み込む余韻が、飲み手に凄まじい活力を吹き込んでくるかのようだ。

Sobre Brut Nature 2011

私自身、初めてお目にかかったキュヴェであり、今回のテイスティングでも圧倒的な輝きを放っていたのが、このソーブル2011年(シャルドネ100%)。10年以上の長期熟成を経てリリースされるこれらの極小生産キュヴェは、ベルトランが次世代(つまり、娘のエロイーズ)に自身の哲学と、磨き上げてきた手法が秘める可能性を、ワインを通じて伝えるために造ったものだ。信じがたいほど高次元なプレシジョンに圧倒されつつ、生粋のシャンパーニュ通を自称する私ですら、未体験ゾーンに踏み込むそのあまりにも特異な味わいの秘密を、テイスティングだけでは看破しきれなかった。ベルトランとエロイーズから、ソーブルの秘密を詳細に伺うことはできたのだが、特殊な事情からここではその情報を明かすべきではないと判断し、細かい言及は控えさせていただく。

ただ一言、このシャンパーニュには、「シャンパーニュのその先」が込められている、とだけ記しておこう。

Cuvée Extrait Brut Nature 2009

ピノ・ノワールとシャルドネをアッサンブラージュして造られる唯一のキュヴェであり、超長期熟成を経てリリースされるシリーズの一つとなるのが、このエクストレ。アッサンブラージュの真価はただ補い合うことにあらず、高次元で融合させることにこそあると高らかに宣言するかのような、圧巻の酒質。

Cuvée Saignée de Sorbée Brut Nature V15

単一区画Sorbéeのピノ・ノワールから、セニエ法で造られるロゼ・シャンパーニュが、セニエ・ド・ソルベ。奥深いルビー色を讃えたこの美しいロゼから漂う、幻想的なムスクの香りに吸い込まれると、肉感的なフルーツのヴェールがゆっくりと降りてくるようだ。力強さと弱々しさ、不変と儚さが、カオス的に交錯し、絡み合いながら、優しい余韻へと収束していく。