2023年3月19日4 分

再会 <33> 安心感

Marc Tempé, Riesling Burgreben 2014.

ワインを開ける時は、大なり小なり不安を覚える。

そのワインが予想していた味わいなのか。

そのワインが期待していた状態なのか。

ちゃんと開いているのか。

どうしようもなく閉じてしまっているのか。

この不安を覚えるという感覚は、いわゆるクラシック・ワインと呼ばれるものを飲みあさっていた時に染みついてしまったものだ。

ブルゴーニュ、ボルドー、バローロ、ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ。

なけなしの貯金を崩して購入したのに、不安が的中したことは数知れず。

喜び勇んで、そのタイミングで開けてしまったことを、何度となく後悔してきた。

しかし、望んだ結果では無かったとはいえ、飲めなかったわけでも、楽しめなかったわけでもない

そのタイミングでしか知り得なかった味わい、と割り切れば、ボトルを空にすることは何の苦でも無かった

では、ナチュラル・ワインの場合はどうだろうか。

不安を覚える、という意味では一緒だが、その内容が少し異なる

開いているか、閉じているか、という懸念はそこまで強くない一方で、状態に対する不安は、格段に上がる

欠陥的特徴(全てが欠陥というわけでも無いので、この言葉はあまり好きではないが)の強弱によって、ナチュラル・ワインは天国にも地獄にもなるからだ。

代表的な欠陥的特徴を挙げていくと、以下のようになる。

還元臭:白ワインでは硫黄臭、赤ワインでは焼けたゴムの香りが出ることが多い。

揮発酸:酷いと除光液的な香りと、鋭角過ぎる酸味に。

ブレタノミセス:酷いと馬小屋臭とも呼ばれる強烈な異臭に。

ネズミ臭:日本ではマメ臭と俗称されている。ネズミの死骸、腐った牛乳、腐った枝豆などなど。

還元臭、揮発酸、ブレタノミセスに関しては、完全な欠陥とは言えない

これらの要素は、多少なりともクラシック・ワインに含まれてきたし、調和の中にあれば美点となることもできる。あくまでも、調和の中にあれば、だが。

しかし、ネズミ臭だけはどうしようもない。この欠陥はワインのあらゆる美点を、ブショネ以上に破壊してしまう

しかも、破壊してしまうだけではなく、ある程度個人差はあるものの、「それ以上飲めなくなるほどワインが不味くなる。」と感じる人が決して無視できない割合で存在しているのだ。かくいう私自身も、ネズミ臭に汚染されたワインは全く飲めないため、(心は痛むが)問答無用でボトルに入った残りのワインを全量破棄する。

さて、真の問題は、この「破棄される」という結果にある。

ワインという最後の形に至るまでに、1年間に渡る畑仕事の苦労、醸造所での苦労、輸出、輸入、流通という一連の苦労が積み重なり、当然そのあらゆる段階で、物的資源、人的資源、エネルギーが消費されている。

その最終系としてのワインが破棄される、というのは、「嗜好品だから」といったお決まりの言い訳が容易に破綻する程度には、ど真ん中過ぎるアンチ・サスティナブルだ。

当然私も、破棄などしたくない。

破棄するたびに、「自分のような飲み手のもとに、このワインが届いてしまったこと」を恨めしく思いすらする。

だから、私が達した結論は、可能な限りネズミ臭に関して安心できる造り手のワインしか購入しない、というものだ。

今回の再会は、そんな「安心安全」のナチュラル・ワイン。

すでにナチュラル・ワイン聖地の一つとなったフランス・アルザス地方のベテラン、マルク・テンペだ。

しかも、ちょっとした(良い意味での)場末感が漂う小さなワインバーで、バックヴィンテージの2014年に遭遇した。

欠陥的特徴に関しては、ほぼ心配無用のテンペだから、気になったのは熟成状態とコンディションだけ。

抜栓されたコルクは綺麗で、ソムリエが自分のテイスティング用に少し注いだワインも、特に問題がありそうな色はしていなかった。

私のグラスへとワインが注がれ、少し色を眺めた後で香りを探ると、少し重くなっていた目(二件目だったので)がパッと開いた。

期待以上だった。

ヴィンテージから9年目に突入したそのワインは、驚くほどのフレッシュさを保ちながら、完璧に健全だった。

まだ少し硬い、とすら思えたほどだ。

クラシックでもナチュラルでも、ワインにドキドキはつきもの。

どれだけ経験を積んでも、不安を完全に消し去ることなど出来はしない。

だからこそ、ちょっとでも安心できる要素が多い、というのは確かなアドヴァンテージなのでは無いだろうか。

***

「再会」と「出会い」のシリーズは、SommeTimesメインライターである梁世柱が、日々のワイン生活の中で、再会し、出会ったワインについて、初心者でも分かりやすい内容で解説する、ショートレビューのシリーズとなります。