2021年4月19日16 分

静かに再起する産地 ダオン <ポルトガル特集後編>

ダオンは森に囲まれた静かな産地だ。

その日はダオンワイン協会長のペドロに付きっきりでダオンのワイナリーを案内してもらった3日間の最終日で、最後のアポイントまで少しだけ時間があった我々は途中のホテルで休息しながら目の前に広がる湖を見ていた。湖の手前にはぽつんと木が立っている。

あの木を見てくれ。根本が焦げているのが分かるだろう?去年の山火事ではここまで火が来たんだ。湖の向こうの山も全て焼けた。離れて生えているこんなところまで燃えたんだ。

その言葉の通り、3日間ダオンのあちこちを巡る中で焼け焦げた森を嫌というほど見てきた。2017年10月15日の早朝に起きた山火事で、ダオンを中心に22万ヘクタールが焼けた。単純に比較すべきものでは勿論ないが、この面積は昨年ナパヴァレーで甚大な被害を出したglass fireの8倍近い面積となる。多くは森林火災だったが、ぶどう畑やワイナリーなどが焼け落ちた例も多い。40人以上の死者が出た。

本稿ではダオンを取り巻く様々な事象を、それぞれの生産者と併せて取り上げていきたい。ダオンを包括的に語るのは未だ難しい。それはここが現在でも半ば歴史の中に眠る産地であるからだ。そのまどろみの中からゆっくりと目を開く、ダオンの生産者たちが少しでも知られるきっかけとなれば嬉しい。

火災の爪痕

カサ・デ・モウラスCasa de Mourazはポルトガルで唯一、ニコラ・ジョリーが主催するビオディナミの生産者のグループ「ルネッサンス・デ・ザペラシオン」に加盟するワイナリーだ。2019年に日本で行われた同会の試飲会にも参加していたので、覚えている方もいるのではないだろうか。

そして彼らは、2017年10月の山火事で最も大きな影響を受けたワイナリーでもある。醸造所は被害を免れたが、ストックヤードと古樹を含む多くの畑が焼けた。当初はワイナリーを継続するのには致命的なほどの被害かと思われたが、クラウドファウンディングなどを通して資金を集め、無事継続するに至った。

(サラ。火災の影響のあった木は芽吹いてみないと生きているかどうか分からない。)

主に栽培や醸造を担当するアントニオの妻で、主にPRを担当しているサラによると、「あの火災は大量に植えられたユーカリが原因。ダオンは元々松の木がほとんどだったのに、製紙業のためにユーカリが植えられた。ユーカリは油分を大量に含んでいるので燃えやすいし、燃えたものが風に乗って飛ぶので遠く離れた場所で延焼を起こす。今回の火災も元々あった松の木はそれほど燃えてない。」という。

サラの言う通り、ダオンは元々、松の木が広く生い茂る産地だ。その点でオリーブやアーモンドの木が多い北部のドウロや、オリーブに加えてコルクの木をよく見る南部とは気候を異にする。ダオンの総面積は37万ヘクタールに及ぶが、そのうちぶどう畑は約2万ヘクタールのみ。ぶどう畑の周りを森が取り囲む。

ダオン

ここで一度ダオンについて見てみよう。

大まかに、北にドウロ西と南にバイラーダ東にベイラ・インテリオールと接するポルトガル中部の内陸に位置するワイン産地である。バイラーダとダオン、ベイラ・インテリオールを含む地域をまとめてベイラス地方とも呼ぶ。ダオンの中心となる街はやや北部に位置するヴィゼウ。とはいえヴィゼウを含む都市圏の人口は35万人ほどで、リスボンやポルトなどと比べると小さい。また鉄道がないこともあり、近年ポルトガルの経済を大きく支えている観光客も比較的少ない静かな都市である。

ダオンは山に囲まれた盆地のような産地だ。西のバイラーダとはCaramuloやBuçacoといった山脈で隔てられており、東にはポルトガル本土で最標高の山脈、Serra da Estrela(1,993m)が控える。比較的標高の低い中央部にはDão川、Mondego川という河川が北東部から南西部に向かって流れており、南西部が一番標高が低く温暖だ。その周りの山々に雨雲がぶつかることで雨が多い産地となっていること、また土壌は花崗岩が多いことは前回お伝えした通りである。

さて、ダオンは何故歴史的に著名な産地となったのか。この問いに答えるのは実はそう簡単ではない。日本では、檀一雄がポルトガルに住んだ際に名前が似ていることからよく飲んだということでも知られるが、そもそも今では檀一雄を知らない人も多いのではと不安になる。「火宅の人」を書いた作家で、壇ふみのお父さんです。みなさんご存知でしょうか?

ワイン造りがこの産地でいつ頃から始まったのかははっきりとしないが、中世には既にワイン産地としてよく知られるようになっていたようだ。1908年には当時のフィロキセラを原因とする混乱からの回復の最中に、ダオン地方の法規制が行われた。ポルトガルでの最も早い産地規制は1756年のポートだが、実はダオンはポルトガルで最も早く認定されたスティルワインの産地のひとつである。

とはいえ話はそう簡単ではない。この時期にダオンに大きな影響を与えたのは協同組合や生産者協会である。元々ダオンは畑の所有者が細分化されており、平均所有面積は今でも非常に小さい。このため20世紀に入って重要な組合や協会がいくつも組織され、1930年代以降は組合にぶどうの殆どが売られていたようだ。いまだに生産量の大部分はこういった共同協会などから造られており、小さな生産者が表舞台に立つようになったのはポルトガルがECに加盟した1986年以降のことだ。

(ダオンワイン協会に残る20世紀半ばの輸出量の古いグラフ。手が混んでいる。)

この協同組合の果たした大きな役割として見逃せないのは他のヨーロッパの産地同様、特に醸造技術における近代化である。ダオンでは伝統的に、特に小規模なワイン造りでは花崗岩のラガールや木製の発酵槽で破砕と発酵が行われていたが、1950年代以降にはコンクリートやステンレスの発酵槽が協同組合中心に導入された。またそれまでの人力に頼ったワイン造りは次第に電力にとって代わられるようになり、大量生産への道筋がつけられた。

そしてネゴシアンたちにより、バルクワインからワインが大量に作られるようにもなった。これらの品質はまちまちで、ブレンドの技術などにより高い名声を得るものも、品質の悪さからダオンの名声を引き下げるものもあった。グラン・ヴァスコメイア・エンコスタなど、今でも存在するダオンの顔ともいえるブランドも存在する。この二つはどちらも、今でもダオンを代表する生産量と品質、そして低価格を誇るダオンを代表するワインである。

これらの大まかな流れの中で、ダオンのワインが大きく羽ばたいたのはつい最近、21世紀に入ってからのように思う。ポルトガルの産地はどこでもECに加盟した後から大きな変革を経験しているが、ダオンは、ドウロやヴィーニョ・ヴェルデ、そしてアレンテージョにやや遅れて、主に協同組合にぶどうを売ることをやめ自らでワインを生産することにした生産者たちから、次第に高い品質のワインが登場するようになった

Casa de Mouraz Elfa & BOT

さて、カサ・デ・モウラスの話に戻ろう。

彼らがリスボンでの仕事を辞めて、アントニオの生まれ故郷であるダオンに戻ってきたのは2000年のことだ。森に囲まれた小さな畑を数多く持つ彼らは、そこから今のダオンを代表するようなワインを産んできた。代表するキュヴェが、エルファでありボットだ。

この二つのワインはそれぞれ、ダオンの古木から造られたものだ。前稿の冒頭、アルヴァロ・カストロが立っていた畑の写真を覚えているだろうか。この二つのワインは、あの畑のようにダオンの古い畑の伝統であるフィールド・ブレンドだ。エルファは30品種、ボットは7品種以上が植えられている。またポルトガルのこういった畑で多く見られる特徴として、どちらも赤白の両方の品種が混ざる色は白が混ざるからか淡く、味わいは軽めで、丸く柔らかい、そして余韻が長い

品種の数だけならエルファだが、ボットは面白い畑だったそうだ。ぶどうだけでなく、オリーブやイチヂク、モモ、プラムなども植っていたというから、さながら果樹園の装い。そんなところに樹齢100年以上の樹があった。あった、というのは、この畑は2017年の火災で全て焼けてしまったのだ。一度行ってみたかったが本当に悔やまれる。最後の2016年ヴィンテージの生産量はたったの683本。まだ日本でも手に入るのは幸いとしか言いようがない。今彼らはBOTの畑を元の品種を使って植え直しているそうだ。とはいえ同じ樹齢になるのは100年後。そして樹齢が同じでも同じ味わいになるとは限らない。こういった古いフィールド・ブレンドの畑は、失われたらそう簡単に元に戻すことはできないのだ。

ダオンに残されたフィールド・ブレンドの畑が注目されたのは比較的最近のことだ。それまでも一部の生産者はこういった畑から造ったワインを自らのトップキュヴェに使ったりしていたが、フィールド・ブレンドだとはあまり謳っていなかったように思う。これはポルトガルに限らず、他の国でも同様だろう。例えばオーストリアのヴィーニンガーが混植の畑、ニュスベルグを手に入れてそのポテンシャルに気がついたのが1999年。彼の強い働きかけのもと、DACヴィーナー・ゲミシュター・サッツとして原産地呼称になったのが2013年である。

そもそも90年代はロバート・パーカーJr.の影響で世界的にビッグなワインが造られた時代だ。ポルトガルでもEC加盟直後に当たり、海外にワインを売る目的でカベルネ・ソーヴィニヨンやシャルドネなどの国際品種が南部を中心に植えられた。聞いたこともない土着品種なんて殆ど海外の誰も求めていなかった。いわんやフィールド・ブレンドなんて、どうやって説明していいのか生産者も多いに苦慮したのである。

それが、時代は変わった。フィールド・ブレンドに他にない価値を見出す生産者やジャーナリストたちが増えた。半ば路傍に打ち捨てられていた石が宝石に変わりつつあるアントニオ・マデイラは、その動きの最先端にいる生産者だ。

Antonio Madeira

アントニオ・マデイラはパリ生まれのフランス人だ。両親がダオン出身のポルトガル人である彼がダオンの混植の畑の可能性に気がついたのは2010年頃だという。本拠地とするセラ・ダ・エストレーラの麓に残る古木のフィールド・ブレンドの畑を少しずつ増やし、今では5ヘクタールほどを管理する。樹齢は50年から120年だというから、ほんの10年であっという間に世界でも有数の古木のワインを持つ生産者になった。

(アントニオと古いフィールド・ブレンドの畑。支柱は花崗岩だ。)

ダオンで最も標高の高い産地であるセラ・ダ・エストレーラ。平均で500m〜600mほどの山間に畑が点々と広がる。実はダオンには7つのサブ・リージョンがあるのだが、余り重視されていないのかラベルに現れることも稀で、生産者も口にすることは少ない。そのような中で異なっているのがこのセラ・ダ・エストレーラだ。多くの生産者がこのサブ・リージョンの名前をラベルに書く。それだけキャラクターが異なるのだ。高い標高と粘土の少ない土壌はダオンの中でも特にソフトで酸の高いワインを産む。海から大分離れているはずなのにワインに塩味を感じることがあり、それは海の風がこのセラ・ダ・エストレーラに当たるからではないか、と言われることもある。アントニオのワインにも、その特徴がはっきりと見て取れる。

フランスでヴァン・ナチュールにも親しんでいたという彼のナチュール的アプローチは、日本の我々にはある程度経験済みでもダオンではまだ珍しい。私が訪問したときに、彼は使用前のコルクが入った袋を見せてくれた。

「ダオンの協会の認証審査で落ちたから、これから瓶詰めしたロゼのコルクを全部抜いて打ち直さないといけない。今打ってあるコルクにDãoって入ってるからね。」

全く一筋縄にいかない問題だと思う。何より彼自身、誰よりも「ダオンを反映したワイン」を造っていると思っているからだ。認証検査は科学的分析の他に認証パネル数名によるブラインドテイスティングが行われる。恐らくそこで弾かれたのだろう。DOCダオンに相応しくないとして。

こういったことは、特にヴァン・ナチュールにおいて他の国でもよく聞く話だ。認証を敢えて取らない生産者が多いことも今更指摘するまでもない。こんなことは世界の他の場所で、今までもいくらでもあっただろう。とはいえ、個人的にはダオンで今このような議論が沸き起こることは歓迎だ。誰よりもダオンの伝統であるフィールド・ブレンドに注力するアントニオのワインがダオンらしくないとはどういうことか。今後、「ダオンらしさ」はどのように理解されていくのだろう

Quinta dos Roques

さて、「ダオンらしさ」について語るとき、ダオンにおける「新しいダオンらしいワイン」ワインを30年近く前に造り、最終的に協会が認証するに至ったワイナリー、キンタ・ドス・ロケスについても触れないといけない。それは単一品種のワインだ。

90年代初頭、ダオンでは単一品種でワインを造ること自体が認められていなかった。そんな中、1992年にキンタ・ドス・ロケスのルイス・ロウレンソが白ぶどうのエンクルザードを使った単一品種のワインを発表。この頃は単一品種も認められていなければ、樽発酵を行ったため、その香りが「ダオンらしくない」ということでテイスティングでも落ち、認証を取ることはできなかった。翌1993年にダオンワイン協会が単一品種のワインをDOCに含めることを決定し、1994年にキンタ・ドス・ロケスがリリースしたアルフロシェイロ100%の赤ワインが正式なダオンの最初の単一品種のワインとなる。

(ルイスさんとテイスティング。こちらは単一品種マルヴァジア・フィナのバーティカル。歴史を探る。)

日本にもコロナ禍の前までは毎年のように来日していたルイスさんに言わせると、それまでダオンでは全てブレンドしてしまっていたけど、自分はもともと数学教師だったし、分けたらどうなるんだろうと思ってやってみた、とのこと。

彼が始めたダオンの単一品種は、1996年に造ったトウリガ・ナショナルがワイン誌などで高く評価されたことで早速花開いた。キンタ・ダス・カルヴァリャイスやキンタ・ダ・ペラーダなどが同年から単一品種のワインをリリースし後に続く。今ではダオンで単一品種のワインを造ることはごく一般的になったが、このように僅か30年弱の歴史しかないというのは意外に思われる方も多いのではないだろうか。ポルトガルを代表する品種であるトウリガ・ナショナルはダオン原産のぶどうとして知られているが、長い間単一で作られる品種ではなかった。

ダオンのトウリガ・ナショナルは、フラワリーで酸が高く、質感が滑らかで柔らかく、ドウロのそれは、よりフルーティかつスパイシーでタンニンが強く、力強く飲みごたえがあるものが多い。そのような比較が可能になるきっかけを作ったワインとして、彼のワインはポルトガルワインの中でも偉大なベンチマークのひとつであることは間違いないだろう。これはキンタ・ドス・ロケスが30年前に新たな可能性を見出した「ダオンらしさ」のワインである。

Casa da Passarella

カーサ・ダ・パッサレーラは1892年の設立以降、ダオンを代表するワイナリーとして知られてきた。また、サブ・リージョン セラ・ダ・エストレーラに位置し、その中でも最も標高の高い場所に位置するワイナリーでもある。醸造家のパウロ・ヌネスはポルトガル国内で何度も受賞歴のある著名なワインメーカーだ。

さて、トウリガ・ナショナルで知られるダオンだが、栽培面積では3番目となる。意外に思われるかもしれないが、1番はジャエン、2番はバガだ。(本稿では触れないが、バイラーダの土着品種として考えられがちなバガのダオンにおけるポテンシャルは個人的に非常に注目している。単一品種でリリースされるワインもまだ非常に少ないが。)

ジャエンは聞き慣れない名前かもしれないが、実はスペインのガリシア地方を代表する黒品種であるメンシアのシノニムだ。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者がその帰りに持ち帰ったとも言われるが、ポルトガルの中でもダオンの気候に特に適合し、ダオンを中心に植えられている品種である。スペインでは基本的に生産性は余り高くない品種だと考えられているが、ダオンでは生産性が高く、病害にも比較的強いため、広く栽培されるようになったと言われる。(ダオンにおいてはトウリガ・ナショナルの方がよほど生産性は低いと考えられている。)

ダオンの中でも特に標高が高く涼しいこの地域で成功例が多く、パウロもこの品種に大きな可能性を見出している。伝統的にはトウリガ・ナショナルの味わいの強さを和らげるためにブレンドされていたが、トウリガ・ナショナルと比較すると酸が低く、タンニンも柔らかくなるのが特徴で、よりテロワールの表現がしやすいという。

(パウロと彼の造るジャエン「エンシャルティア」のボトル。)

私もスペインのビエルソやリベイラ・サクラなどのメンシアと飲み比べたことがあるが、タンニンが強く力強いビエルソ、ピノ・ノワール的とも言われる華やかなリベイラ・サクラと比べると、やや大人しいキャラクターながらソフトで旨味のあるダオンの味わいも非常に魅力的に思えた。トウリガ・ナショナル単一のワインが30年弱の歴史しかないのなら、こちらは更に短く、挑戦している生産者も少ない。ダオンの可能性を掘り起こす試みはまだまだ始まったばかりなのだ。

Quinta da Pellada

アルヴァロ・カストロはいつもふざけている。会うといつも冗談ばかり。どこまで本気かいつも分からないが、間違いなくダオンのトップランナーだ。単一品種のワインもフィールド・ブレンドのワインもいち早くチャレンジし、ドウロディルク・ニーポート(彼もドウロの革命者だ)と、それぞれの地域のワインをブレンドしたDADO(今はDODA。名前の理由はDAoとDOuroのワインのブレンドだから。)を2000年からリリースしている。最近ではヴァン・ナチュール的アプローチのワインもリリースしているが、一方でクラシックなスタイルのワインを長期熟成させてもいる。そして全てにおいてクオリティが高く、おまけに一部のワインの値段はダオンでも飛び抜けて高い。

(アルヴァロと、彼が前稿の冒頭の写真の畑から造ったワイン Mata。)

1980年にワイナリーを引き継いだアルヴァロが経てきた道は、そのままEC加盟後のダオンの歩んできた道のりと重なるように思える。それは、生産量も少なく(ドウロと比べればダオンの生産量は僅か1/7である。)大量生産の協同組合によるワインがほとんどだった産地から、どのような可能性が発見できるのかの試行錯誤の歴史だ。様々なワインのスタイルを試し、それぞれの品種やフィールド・ブレンドの可能性を探った。

ダオンはドウロのように元々力のある産業(ポート)があったわけでもなければ、ヴィーニョ・ヴェルデのような分かりやすいスタイルがあるわけでもない。アレンテージョのように広大な土地で容易に機械化できるわけでもない。

だからこそ、ダオンのワインには今でも土地や人の味わいが強いのかもしれない。時代遅れだと言われそうなワインもまだまだ多い。しかしゆっくりと、しかし確実に前進している。炎で焼かれた大地から新たに植物が芽吹くように、ダオンの進化は静かに進んでいる

伝統の先にあるもの

冒頭に書いたように、ダオンを包括的に語るのはまだ難しい。ここまで見て頂いたように、一つ一つの生産者が特異点のようにそれぞれの挑戦を行っており、うねりとなるのにはもう少し時間がかかるだろう。ポルトガルについてスペイン人が言うというジョークを聞いたことがある。「スペインからポルトガルに行くときには、『19世紀に戻ろう』って言うんだ」。スペインから見ても、よくいえば昔ながらの伝統の残る、悪くいえば古臭い、そんな国。しかし今も息づくこの伝統こそが、21世紀の今、最も大きな価値となりうるのではないだろうか。その中心の一つとして、ダオンの生産者は伝統と向き合い、新たな価値を探っている。是非今後も注目していただきたい。ポルトガルの国鳥は朝を告げる鶏だ。その声が高らかに世界に響き渡るのは、もう間も無くである。