2023年11月26日3 分
私は造り手を訪問した際、できる限り「造り手の想い」を引き出そうと努めている。
その舞台は、もっぱら葡萄畑の中だ。
セラーやテイスティングルーム、ましてや大きな試飲会場などでは、(嘘も含めて)適当な回答をされることは少なからずあるが、不思議と(全てがさらけ出される)葡萄畑の中では、そのようなことはない。
ある程度融通の聞く単独取材の場合は特に、葡萄畑でできるだけ多くの時間を共に過ごしたい、とリクエストを入れるようにもしている。
しかし、私が造り手の想いを知りたい理由は、それを他者に伝えたいからではあまりない。
そう、私は造り手の想いと、ワインという結果の「整合性」をはかるために、聞いているのだ。
例えば、このような想いが造り手から語られたとする。
「自然環境を守るために、ビオディナミ農法を採用した。」
「体に優しいワインを造りたいから、添加物を徹底的に排除した。」
「テロワールをそのまま表現するために、できるだけ手を加えないようにしている。」
「たとえ畑仕事が大変になっても、収量が落ちても、私はオーガニックという選択をする。」
これら全てに、私は個人として強く賛同するし、リスクを承知した上で取り組む姿勢と覚悟には、深い尊敬の念を抱く。
しかしそれでも、私は彼らの想いだけを直接的な形で誰かに伝えることは、極力控えている。
同じような想いを語る生産者が、世界各地に数えきれないほど存在しているからだ。
それが極めてレアなケースならまだしも、同様の想いが何千何万という造り手から発せられるのであれば、その想いはもはや、単体として、全てを肯定できるほどの特別な価値とはなり難い。
クリーン・ナチュラル・ワインが台頭する前の、ナチュラル・ワイン・シーンが陥った罠は、まさにここにある。
すでに大きな伴流となっている想いを特別視するあまり、結果としてのワインを軽視し過ぎた側面があることは、否定のしようも無いだろう。
その想いは、本来なら非常に大切なものであるはずだが、我々がその使い方を間違えたが故に、形骸化に限りなく等しい状態となってしまっているのだ。
そして、そのような時代だからこそ、結果に対する価値判断の比重を大いに上げるべきだと私は考える。
回り回って、結果を軽視しないことが、彼らの想いそのものを正しく守ることに繋がるのではなかろうか。
余談だが、私が今年テイスティングした数多くのワインの中でも、最も「評価するに値しない」と断じたワインは、人伝に「とても頑張ってる造り手だから」と紹介された、とある産地でビオディナミ農法を採用したピノ・ノワールだった。
5,000円前後の値段がつけられたそのワインの品質は、1,000円を切る他国の超格安ピノ・ノワールよりも、遥かに劣るものだった。
SMAPが「世界の一つだけの花」で歌った世界観を完全に否定するつもりはないが、現実はそう甘くない。
頑張っている、という理由だけで、「良いワインだ」と嘘をつくことは私にはできないし、それはプロフェッショナルとしての責任放棄であるとすら思う。
繰り返しになるが、結果こそが想いを肯定する、という基本原理に立ち返ることが、最終的のその想いや努力を守ることになるのだと、私は確信に限りなく近いレベルで信じている。