2021年8月22日19 分

ジョージアの試練 <オレンジワイン特集後編>

最終更新: 2021年11月5日

イタリアスロヴェニアの国境地帯に股がるゴリツィアの地から始まったオレンジワインの再興は、消滅寸前まで追い込まれていた、古代のワイン文化を発掘した。ジョージアと、ジョージアの伝統的なクヴェヴリ(*1)による醸造、そして白葡萄の果皮を漬け込んだまま発酵したオレンジワインである。大多数の現代的なワイン市場にとっては、ジョージア産オレンジワインは、まるで人類の前に突如姿を現したシーラカンスのような存在であった。しかし、そのショッキングな登場から10年以上が経過し、今改めてジョージアの古代ワイン文化は、問われている。骨董品として何も変わらない姿であり続けるのか、古代の文化を継承した現代のワインであるべきかを

*1:ジョージアで用いられる素焼きの土器。円錐形で地中に埋めて使用される。ジョージアの西側ではチュリとも呼ばれる。

ジョージアワイン文化の始まり

歴史の話を楽しめるかが、人それぞれなのは重々承知している。しかし、ジョージアの、そしてオレンジワインの理解を深めるためには、歴史を知ることは必須と考える。しばらく、お付き合いいただきたい。

ジョージアのワイン造りが、8,000年を越える歴史を誇っていることは、すでに広く知られていることだろう。Transcaucasia(コーカサスの向こう側)とも呼ばれる、コーカサス山脈南側のエリア(現在のアルメニアの全て、ジョージアとアゼルバイジャンのほぼ全て、イランとトルコの一部がTranscaucasiaに含まれる)は、20世紀初頭には、ロシアの植物学者ニコライ・イヴァノヴィッチ・ヴァヴィロフ博士によって、ヨーロッパ葡萄(ヴィティス・ヴィニフェラ)とワイン文化発祥の地である可能性が指摘されていた。しかし、謎に包まれたワインの起源が解き明かされ始めたのは、1990年代以降のこととなる。アメリカ・ペンシルヴァニア大学に所属し、古代の食物や飲料の解析を専門とする考古学者、パトリック・エドワード・マクガヴァン博士が、イラン北西部に位置するザグロス山脈にあった新石器時代の集落跡で発見された土器から、ワイン造りの痕跡と目される酒石酸塩樹脂(現代まで続くギリシャのレッツィーナと同様に、ワインの保存性向上を目的として使用されたと推察される)を検出、紀元前5,400~5,000年の時代に使用されたものであるとの解析結果を発表したのだ。

マクガヴァン博士による、イランでの発見が公表された当時でも、ジョージアこそが世界最古のワイン産地であるという仮説(葡萄をモチーフにした装飾が施された、紀元前6,000~5,000年頃のものと目される土器がジョージアで発見されていた)を支持する考古学者は多かった。しかし、ジョージアの政治的不安定(詳しくは後述)が主因となり、本格的な調査が始まったのは2006年にまでずれ込んだ。この頃には、ワインに関する考古学調査は格段に精度を高めていた。酒石酸塩と樹脂だけではなく、炭素年代測定、遺伝子解析、超解像顕微鏡の使用に加え、生体分子考古学、植物考古学、葡萄遺伝子学、地質学といった分野からも「証拠」を積み上げることによって、仮説の立証をより強固なものにする体制が整えられていたのだ。

2014年に、National Wine Agency of Georgiaが、ジョージアと世界各国の考古学調査機関が協力する「Research Project for the Study of Georgian Grapes and Wine Culture」を立ち上げると、調査は一気に加速した。調査の中心地となったのは、ジョージアの首都トビリシから50kmほど南下したMarneuli(マルネウイ)という街の周辺にある、Shulaveri Gora(シュラヴェリ・ゴラ)、Gadachrili Gora(ガダチュリリ・ゴラ)、Imiri Gora(イミリ・ゴラ)という三箇所の密集した遺跡群。調査チームの中でも、特筆すべき発見をしたのは、ジョージアとカナダの共同調査プロジェクトである「The Gadachrili Gora Regional Archaeology Project Expedition」(通称GRAPEプロジェクト)だ。GRAPEプロジェクトは、2016年にシュラヴェリ・ゴラ遺跡で出土した土器から、紀元前6,000~5,800年と解析されたワイン造りの痕跡を発見した。また2019年には、ガダチュリリ・ゴラとシュラヴェリ・ゴラ遺跡で発掘された8つの土器に付着していた酒石酸、リンゴ酸、クエン酸等を解析し、他分野の解析も統合参照した結果、少なくとも紀元前6,000年にまで遡れることが発表された。現在でも、調査プロジェクトはさらなる発掘を進めており、より年代の古い証拠の発見に期待が寄せられている。

あくまでも、これらの調査結果から、「現時点では」ジョージアが世界最古のワイン産地とされているが、考古学というのは、新たな発見によって簡単に覆されるものである、ということを忘れるべきでは無い、とだけ記しておく。

ジョージアの首都トビリシの街並み

近代ジョージア

8,000年以上に及ぶジョージアワインの歴史の全てを網羅するのは、専門書に任せることとするが、紀元後の時代に突入するまでのジョージアにおけるワイン造りの痕跡は、非常に多くの時代に渡って、多数発見されている。つまり、ワイン造りの文化は途切れていなかったと推察されるということだ。紀元後に突入すると、ジョージアにとっては、約2,000年間に及ぶ、苦難の時代が始まってしまう。ヨーロッパとアジアの繋ぎ目に位置するジョージアは、東西南北から、絶え間ない侵略を受け、併合、独立、分割を繰り返してきた。驚くべきは、ジョージアのワイン造りが、このような侵略の歴史の中でも、途絶えることなく(トルコやペルシアといった、禁酒文化のある国に支配されている時ですら)生きながらえてきたことだ。ジョージアで挨拶の際に用いられる「gamarjoba」という言葉は、直訳すると「勝利」を意味するそうだ。どのような状況に置かれても、自国の文化を守り通すために戦ってきたジョージア人の気高いプライドこそが、ジョージアの古代ワイン文化という世界的な遺産を、現代へと繋いできたのだ。

ジョージアの典型的なオレンジ(アンバー)ワインの色合い。

余談ではあるが、オレンジワインが、最古のワインのスタイルである可能性は極めて低いと考えられる。古代の葡萄畑は、黒葡萄と白葡萄が混植されていた可能性が高く、ワインも両方の葡萄を同時に潰して発酵した。薄い赤ワインに近いものであったと予想される。

ここから先は、現在のジョージアワインとも直接的な関連性が認められる、19世紀以降の変遷を辿っていく。

1801年ロシア帝国に併合されたジョージアは、ジョージアのあまりに長いワイン造りの歴史上でも、極めて重要な意味をもつ転機を迎えることとなる。ロシア帝国との親密な関係は、ヨーロッパ諸国との繋がりも強めたため、ジョージアは中継地として、物資だけではなく、三者間の人的交流も盛んに行うようになった。そして、ヨーロッパ諸国との交流は、ジョージアのワイン文化にも、強い影響を与え始める。19世紀の初め頃から、ジョージアの大きなワイナリーはフランスから近代的栽培醸造技術を学ぶ一方で、フランスにジョージアの伝統製法も伝えるようになった。また宗教的自由を求めてジョージアに移民してきた人々も、ジョージアのワイン文化に大きな影響を及ぼすことになった。特に良く知られているのは、1818年頃に起こったシュヴァーヴェン人(中世ドイツのシュヴァーヴェン公国を起源とする人々)の大量移民である。首都トビリシの近郊に移り住んだシュヴァーヴェン人は、西ヨーロッパの葡萄と、ジョージアの固有品種の両方を使用しながらも、セメントタンクや樽でワイン造りを行い、トビリシで販売するようになった。ジョージアからヨーロッパ諸国へと渡り、ワイン造りを学ぶ人々も出てきていた中で、最も象徴的かつ重要とされる人物が、アレクサンドル・チャヴチャヴァッゼ王子である。

アレクサンドル王子は、カヘティ地方のツィナンダリにある彼の屋敷をヨーロッパ様式へと大改装し、地方貴族や海外からの識者たちの社交場とする一方で、ヨーロッパ諸国から葡萄樹と樽を大量に輸入し、(当時のジョージアの一般的なワイナリーの規模としては)巨大なワイナリーを建造した。アレクサンドル王子のワイナリーは、ジョージアで始めてワインを「瓶詰め」したことでも知られ、15,000本を超えるヴィンテージワインコレクションの中でも、最古のワインは1804年製とされている。現代でもカヘティ産のワインで見ることができるTsinandali(ツィナンダリ)の名は、ボルドーの白ワインを模して、1830年代ごろからチャヴチャヴァッゼ家が考案したルカツィテリムツヴァネをブレンドしたワインを意味している。

1870年代には、ジョージアの貴族であったディミトリ・キピアーニという人物が、北西部のラチャ地方で伝統的に造られていた、アレクサンドラウリという固有品種を主体とした半甘口の赤ワインを大体的にマーケティングし、特にロシアで大成功を収めた。「キピアーニのワイン」とも呼ばれるこのワインは、20世紀初頭まで、ジョージア産ワインを代表する銘柄となった。

19世紀後半に入ると、ジョージアのワイン産業は、新たな局面を迎えた。ヨーロッパ諸国から、うどんこ病ベト病、そしてフィロキセラが到来し、アメリカ台木に接木した葡萄に植え替える経済的余裕がなかった地方の小さな造り手たちに、第一次世界大戦による困窮がさらなる追い討ちをかけた。ロシア帝国の崩壊に乗じて、1918年ジョージアの独立を宣言するものの、1921年にはソヴィエト連邦に再び併合されてしまった。

ソヴィエト連邦の影響

ソヴィエト連邦によるジョージアの国粋主義者(主に貴族と聖職者)に対する弾圧は1924年まで続き、50,000人を超える人々がソヴィエト連邦によって殺害された。うどんこ病の到来から、苦難に晒され続けたワイン産業も、1920年代中頃には、1900年と比べて半分以下の規模にまで縮小していた。

一方で、ウラジミール・レーニンが率いる左派のボルシェヴィキは、ジョージアのワイン産業が「徴税」の重要な対象となり得ることに着目し、ジョージア併合直後から、ワイン産業の復興を奨励した。レーニンが導入した新経済政策Novaya Ekonomicheskaya Politika、通称NEP)は、食料税(農産物を税として収める)の導入と共に、納税後の余剰分に関しては自由売買を認めるという、部分的に市場経済を取り入れたものであったため、一部のワイナリーは、多くの富を蓄積することが出来た。

しかし、僅かながら復興の兆しを見せていたジョージアのワイン産業は、すぐにさらなる激動の時代に突入してしまう。1924年にレーニンが死去した後、後継者争いに勝利したヨシフ・スターリンは、1928年から1932年にかけて、第一次五ヵ年計画の一部として、農業集団化を強行、NEPによって富を得ていた造り手(富農)から資産と葡萄畑を没収し、他の遠い地方へと強制送還したり、強制収容所(グラーク)送りにしたり、場合によっては銃殺刑に処した。残った農家(貧農)は強制的に集団農業の労働者とされた。1932年には、葡萄畑再建計画として、アメリカ産台木にジョージアの固有品種を接木する方針が固まり、安定的に多収量を確保できる品種のみを栽培することを強制されるようになった。この時に数多くの固有品種の中から、スティルワイン用としてルカツィテリムツヴァネサペラヴィが、スパークリング・ワイン用としてツィツィカツォリコウリチヌリが栽培可能品種として選定された。現在のジョージアワインにおいても、これらの品種が大多数を占めている理由が、まさにスターリンの農業集団化にあるのは事実だが、ジョージアの固有品種が選ばれた理由と、スターリン自身が元々ジョージア人であり、ジョージアワインを好んでいたという事実は、決して無関係では無い。葡萄畑再建計画の中には、ジョージアの固有品種を全てヨーロッパ品種に植え替える案だけでなく、葡萄畑を茶畑に変えてしまう計画すら含まれていたのだから、スターリンの判断が一つ違えば、ジョージアワインだけでなく、オレンジワインを含むワインの歴史そのものが変わっていた可能性すらあるのだ。それだけ大きな決断を、半ば個人的な理由で下してしまえるほど、当時のスターリンの権力は絶対的なものだった。

1940年までに、葡萄畑の面積を100,000haまで拡張するという計画が進むなか、新たな進展が見られた。ギオルギ・ベリッゼなる人物が、ロシア帝国時代のジョージアワインの記録を参考に、ジョージア各地の土壌、気候に最も適した品種(超大量生産を前提とした)を選定する任に就いたのだ。しかし、この時に定められた生産区域は、テロワールによる境界線ではなく、あくまでも政治的境界線の範疇を出ないものだった。後に、このプロジェクトには更なる専門家たちが集結し、計画はより重要性を増していく。テロワールに対する葡萄品種の適性調査だけでなく、より優れた葡萄を産む特定の畑や地域もまた、特定が進んでいったのだ。1960年代まで続いたこの一連の調査活動は、現代のジョージアワインの礎ともなっている。

時を同じくして、ジョージアワイン産業の一大工業化が進み、ロシア帝国時代には、貴族のみが楽しんでいたジョージアワインが、ソヴィエト連邦のあらゆる階層に親しまれるようになった

地中に埋められたクヴェヴリの数々

*ジョージアの伝統的オレンジワインの製法*

足で葡萄を破砕した後に、地中に埋めたクヴェヴリの約75%の容量で果汁を流し込み、チャチャ(果皮、種、茎)も投入する。平均的な発酵期間は8~12日間野生酵母のみで発酵を行い、発酵開始から2~3日程度経過したタイミングで、酵母への積極的な酸素提供と、液面に浮かび上がってくるチャチャを湿らせて抽出を促進する目的で、定期的にパンチダウンと攪拌を行う。チャチャが沈み始めると発酵終了の合図となり、特にタンニン分が多く含まれる種は、クヴェヴリの円錐最下部の窪みへと集まっていく。発酵終了後にガラス製の上蓋を設置し、上蓋の周囲を粘土石灰や土で固めた上で、さらに粘土を重ねて封じる。伝統的には、クヴェヴリは翌年の春(3月後半〜4月)まで開けられることはないが、世界各地への輸出が本格化し、欠陥的特徴の過度の現出が深刻な問題となっている昨今は、クヴェヴリから熟成中のワインを抜き出せる機構を備えた上蓋を導入したり、定期的に封を外して中のワインの状態を確認する造り手も増えてきた。春になって、クヴェヴリの蓋が完全に取り除かれると、チャチャを取り出して、ワインのみを別のクヴェヴリに移してさらに熟成させたり、瓶詰めしてしまったりする。

工業化への対抗

単純に産業レベルの話をすれば、この時代にジョージアワイン産業は、大きく発展した。しかし同時に、急速な勢いで、ジョージアの伝統的ワイン造り、つまりクヴェヴリを用いたワイン造りは、姿を消して行った。消え去ったのは、クヴェヴリだけでは無い。全てのジョージア産ワインが、連邦によって管理されたモノポリーであるSamtrest(サムトレスト)のラベルを貼られて流通したため、ツィナンダリやムクザニといった特定の名称は残ったものの、志ある造り手たちが誇りをもって掲げていたマラニ(ジョージアにおけるワイナリーを実質的に意味する言葉)の名もまた、消え去ってしまった。

この時、歴史上数多くの侵略を受けながらも、自らの文化と伝統を守り通してきたジョージア人らしい行動が、ジョージアの古代ワイン文化を救済したことは、あまり知られていないだろう。

農業集団化により、財産と畑を奪われ、遠方へと強制送還された造り手たちの多くが、送還先の大量生産には向かない斜面に小さな葡萄畑を開墾し、クヴェヴリによるワイン造りを続け、ソヴィエト連邦に蔓延していた「闇市場」で売り捌いたのだ。ワイン産業の工業化により、クヴェヴリによる醸造は絶滅寸前にまで縮小したものの、それでも、生き残った

第二次世界大戦中は、生産量を大きく落としたものの、大戦後は需要が復活。ジョージアは再び、超大量生産の体制を急速に整え直す必要に駆られた。この時に進んだのが、より広範囲への灌漑設備の導入と、化学肥料農薬の採用である。つまり、より効率を上げて、戦後の人手不足の中でも、超大量生産を可能とする方法として、それらが採用されたのだ。しかし、それでも非現実的な数字の目標生産量に達するのは困難を極めたため、濃縮果汁、タンニン、砂糖、水などを加えて「増量」した偽造ワインが蔓延していたとされる。

1980年には葡萄畑は150,000haにまで拡大、需要も順調な成長曲線を描いていただが、1985年から1988年にかけて、再びジョージアワイン産業を試練が襲う。当時の最高権力者、ミハイル・ゴルバチョフ書記長による「禁酒令」の発令である。この間、「工場製」のワインは大きく生産量を落とす一方で、細々と生きながらえてきた自家醸造ワイン(ソヴィエト連邦の制度から見ると、密造酒とも言える)の重要性が増し、闇市場での取引が盛んになった。

繰り返されるワイン産業の衰退と復興

1991年、ソヴィエト連邦が急速に崩壊へと向かう中、元々連邦中央政権への反発が強かったジョージアも、独立を宣言した。それに伴い、集団農場も解体され、各労働者に1.25haずつ畑が分配された。しかし、連邦の解体に伴う各国の混乱は、ワイン消費を急速に鈍化させ、もはや国家戦略としての強制的な葡萄栽培をする必要がなくなった農家の多くが、分配された葡萄畑から葡萄樹を引き抜き、他の作物へと植え替えてしまった。また独立から程なくして勃発した内戦と経済破綻は、ワイン産業を更なる疲弊へと追い込み、多くの葡萄畑が耕作放棄地と化していった。同時期に、全くの他業種からのワイン産業参入も多く見られたが、ワイン造りを何も理解していなかった彼らのほとんどが、事業を失敗させた。

1990年代後半に入ると、1995年にジョージアの大統領に就任したエドゥアルド・シェワルナゼの施政の下、ジョージアの情勢が安定化し始める。1997年には、ジョージア独自のものとしては初めての原産地呼称制度が定められ、ジョージアワインの再定義が始まった。この頃、多くのワイナリーは、ヨーロッパからコンサルタントを招聘し、ジョージアワインのヨーロッパスタイルへの変化を加速させていった結果、近代化に成功したワイナリーは売り上げを順調に伸ばしていった。

2000年代中頃まで、ジョージアワインの輸出先は旧ソヴィエト連邦の構成国がほとんどだったが、状況が一変する出来事が2008年に発生する。ロシア連邦のウラジミール・プーチン首相(この時期は一時的に大統領から退任していた)が、ジョージアが南オセチアに軍事侵攻したことに対する報復の一つとして、ジョージアワイン禁輸令を発令したのだ。ジョージアワイン産業は、突如として輸出量の90%を占めていた最重要顧客を失ったことになる。しかし、この絶望的とも言える出来事こそが、ジョージアワインを世界市場へと羽ばたかせるきっかけとなった。ロシアへの輸出が途絶えてからすぐに、ジョージア政府は世界市場に対するジョージアワインのプロモーションに、多額の投資を行い始めた。世界中からジャーナリスト、インポーター、ソムリエを招待してジョージアワインの魅力を伝えると共に、「世界最古のワイン産地」の肩書きを確かなものとするための、考古学的調査への投資も怠らなかった。長い間、社会主義国家の分厚いカーテンの向こう側に在ったジョージアワインの全貌が、はっきりと見渡せるようになったのだ。

本稿で集中的に追った19世紀以降のジョージアの変遷を知るだけでも、ジョージアが幾度となく侵略と支配を受け、時の権力者の政策に翻弄される中でも、ワイン産業は衰退と復興をひたすら繰り返しながら、なんとか生き延びてきたことが、お分かり頂けたかと思う。繰り返しになるが、何よりも驚くべきは、強制的な近代化、工業化の大波にのまれ続ける中で、古代から続くワイン造りの秘技が、失われなかったことだ。ジョージア人の不屈の精神に対して、筆者は心からの敬服の念を抱く。

ジョージアの葡萄畑の様子

世界に飛び出したジョージアワイン

現在のジョージアワインは、僅か数パーセントの古代ワイン文化を受け継ぐワインと、残りの近代的ワインによって構成されている。ジョージアワインが世界市場へと広まっていった際に、注目を浴びたのは、古代ワイン文化の方だった。当然だ。2010年代以降のワイン市場にとって、「見知らぬ国で造られたヨーロッパ風ワイン」のようなものは、とっくに時代遅れの遺物となっていたからだ。しかし、最初は未知の古代ワイン文化に対する驚きと好奇心によって、急激に浸透していったジョージアのクヴェヴリワイン(特にオレンジワイン)は、数年も経たない間に、再び試練の時に入る。

古代ワイン文化を継承したクヴェヴリワインの大半が、ワインメーカーとしては素人同然の農家によって造られ、様々な輸送環境に対応するための工夫や適切な処置もなされないまま、不健全なワインを世界中に撒き散らしたツケが回ってきた。それどころか、海外からジョージアに渡り、クヴェヴリワイン造りを目指した造り手ですら、許容範囲を遥かに超える欠陥的特徴(特にネズミ臭)を伴ったワインを次々とリリースした。その結果として、ジョージアの古代ワイン文化に向いていたはずの巨大な好奇心は、現在進行形で急速に消失しているのだ。

誤解のないように筆者の立場を明確にしておくが、筆者はジョージア古代ワイン文化の、熱烈なファンである。クヴェヴリで造られたジョージアのオレンジワインに、激しく心を揺さぶられる経験を数え切れないほどしている。しかし、それらはあくまでも、「ワインが安定していた場合」という大前提がついた経験だ。古代の製法、という魅惑的な言葉の元に、あらゆる欠陥を許容するほど、私はロマンチストではない

ではなぜ、ジョージアのクヴェヴリワインの多くが、遠い海外へと運ばれた時に、そこに込められていたはずの魂を失ってしまうのか。

その最たる理由は、地球温暖化にあると考える。古代ワインのような限りなく放置型醸造に近い製法で造られるワインが、その健全性を保つためには、葡萄そのものの健全さと共に、葡萄のpH値が、亜硫酸無添加醸造に耐えうるだけの低い数値であることが必要となる。少々乱暴な説明にはなるが、温暖化は葡萄のpH値を上昇させてしまうため、現在ジョージアで収穫される葡萄の大半が、既に無添加醸造に耐える力を持ち合わせていないと考えるのが自然だ。ビオディナミ農法が、葡萄のpH値を下げる効果を有している可能性は度々指摘されてきているが、ジョージアではまだまだ浸透していない。オレンジワインの無添加醸造による欠陥的特徴の過度の現出は、なにもジョージアワインに限った話では無いが、この問題の根底にあるのは、オレンジワインという製法が葡萄の果皮から抽出するポリフェノールの、抗酸化能力に対する過信である。筆者は結果だけから、ワインに関する物事を判断する主義だ。そして結果だけを見る限り、亜硫酸無添加で健全な醸造に成功しているオレンジワインのマジョリティーは、オーガニックに準じた栽培、腐敗果を徹底的に取り除く工程、十分に低いpH値、清潔に管理された醸造所、セラー、発酵槽と熟成槽、高品質な瓶栓といった条件を全て兼ね備えている。そして、残念ながら、現時点でのジョージア産オレンジワインの多くが、複数の条件を欠いている。

真の夜明け

最も簡単なこの問題の解決手段は、亜硫酸の適切な添加であることは間違いない。古代ワイン文化を、古代のままの姿で維持することに固執し、無添加という原理主義を貫いた結果、失われるにはあまりにも価値のある古代ワインの世界市場からの撤退、そして最悪の場合は消失にすら繋がる可能性を考慮すれば、亜硫酸添加は容認するほかない。そして、その容認は誰が行うのか。それは、インポーターであり、ワインショップであり、ソムリエであり、消費者であり、筆者のようなジャーナリストである。数多くの古代派の造り手達が、実際に亜硫酸添加に踏み切っているのだが、市場はまだ彼らの変化に追いついていないどころか、勝手に決めつけた「ジョージアらしさ」を押し付けて、変化を非難する声も多く聞かれる。

筆者は、現代の輸送環境に適した醸造と、古代ワインならではの、ある種の清濁併せもった奥深い魅力が両立できる最適な折衷点が確立され、人類の財産である古代ワイン文化がその本質を決して失わないまま、世界中で楽しまれる未来を、切に願っている。美しい円錐形の土器の中で胎動する、8,000年分の魂の息吹は、必ずまた難局を乗り切ると、信じながら待とう。ジョージアワインに、真の夜明けが訪れる日を。

参考文献:AmberRevolution(SimonJWoolf著)、TheWinesofGeorgia(LisaGranikMW著)