2021年8月8日16 分

オレンジ色の夢の続き <オレンジワイン特集前編>

最終更新: 2021年11月5日

オレンジワインは、過去からの手紙を収めたタイムカプセルのような存在だ。そこには、センチメンタルな美しさと儚さがあり、時空を超えたノスタルジーがある。近代的醸造技術が発した同調圧力は、強引な都市開発が古民家を破壊し尽くすかのように、そこにあったはずの確かな価値を、文化と伝統の墓場へと放り込んだ。しかし、地中深くに埋められた古典美は、志高き英雄達によって掘り起こされ、再興の道のりを力強く一歩一歩踏みしめながら、進んできた。

改めて向き合おうと思う。オレンジワイン再興の物語と。そして、その夢の続きと。

名称と色

オレンジワインというカテゴリー名は、2004年イギリスのワイン商であるDavid A. Harveyによって考案された。オレンジワインに関する最古と目される歴史をもつジョージアでは、歴史的に「アンバーワイン(琥珀色のワイン)」という意味をもつKarvisoeri ghvinoという呼称が用いられてきたため、正にジョージアスタイルのオレンジワインをアンバーワインと呼ぶことも多いが、単純に「カテゴリー名」としての機能を考えた場合、圧倒的な認知度を誇るオレンジワインの明確な勝利と言える。歴史と文化へのリスペクトという点を鑑みても、このカテゴリー名称論争に意義はあまり無い。カテゴリー名とは、共通言語としての役割を与えられた記号である。つまり、より多くの人に伝わる言葉こそがその役割を最も的確に果たしている。

オレンジという言葉につられて、色から判断した否定的意見も非常に多く見られるが、この点に関しては、あまりにも短絡的であると断ずるしかない。真っ白な白ワインも、真っ赤な赤ワインも存在していないのに、なぜオレンジワインにだけは「オレンジ色」であることを求めるのか

暫定的定義

世界的に認められるオレンジワインの明確な定義は、まだ確立していない。しかし、総体としての暫定的定義であれば、十分に有効と言える段階までは、オレンジワインへの理解が進んできているのも事実だ。本稿においても、現実点(2021年)での暫定的定義を、筆者なりの視点から、解説も含めて項目ごとに纏めておく。

*使用葡萄*

白葡萄、及びグリ色葡萄

解説:グリ色葡萄を除外した場合、北イタリア・フリウリ州の伝統的なラマート(詳しくは後述)から発展した数々のワイン(グリ色葡萄を醸し発酵したワイン)が、カテゴリー不明となる。現時点では、このタイプに限定したカテゴリーを新たに生み出すよりも、オレンジワインの定義の中に含めた方が分かりやすい。

*醸造法*

葡萄の果皮(場合によっては種や茎も)を果汁に浸漬させた状態で、24時間以上発酵する

解説:グリ色葡萄のオレンジワインと、ロゼワインの境界線や、非常にライトなスタイルを考えた場合、24時間というラインが妥当と考えられる。また白ワインの醸造でも非常に一般的なコールド・マセレーション(発酵が始まらない低温に維持した果汁に、果皮を漬け込む工程)は、「発酵していない」という点が極めて重要なポイントとなり、白ワインとオレンジワインを明確に隔てている。

*その他項目*

該当なし

解説:この「該当なし」という部分が、オレンジワインの定義を理解する上において、この上なく重要な意味をもつ。つまり、オレンジワインの定義に関連するのは、使用葡萄と醸造法のみであって、ナチュラル・ワイン、アンフォラ、酸化といった要素は、オレンジワインに頻繁に関連するものであったとしても、定義そのものとは全く関係が無いということだ。

再興への道のり

オスラヴィアの変遷

オレンジワインの歴史とその再興を理解する上で、欠かせない国がある。いや、あった、という書き方が正しいだろう。その国とは、最後のハプスブルグ帝国であるオーストリア=ハンガリー帝国だ。オレンジワイン再興の地となったフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州の東側に位置するオスラヴィア(より広義で捉えるとオスラヴィアを含むゴリツィア県とその南側に位置するトリエステ県)は、16世紀初頭から1918年まで、オーストリア=ハンガリー帝国の一部だった。イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国の間で11度(*1)にも渡る壮絶な戦争が繰り返された「イゾンツォの戦い」の果てに、第一次世界大戦末期のヴィラ・ジュスティ休戦協定によって、イタリア王国に統合されたオスラヴィア(*2)は、ワイン文化的には、オーストリア=ハンガリー帝国の影響を色濃く反映していた地域であった。

19世紀のオーストリア=ハンガリー帝国の文献には、広大な領土を誇った同国の南部(ゴリツィアやトリエステを含む)では、現代で言うところのオレンジワインが主流であった、との記述が多数残されている。この伝統は、オスラヴィアがイタリア領土となってからも、長らくの間、脈々と受け継がれていたが、1960年代以降、急速に衰退していくこととなる。オスラヴィアの伝統的なオレンジワインを駆逐したのは、フリウリワイン醸造の父とも呼ばれるマリオ・スキオペット、その人である。60年代初頭に、フランスから栽培を、ドイツから醸造技術を学んだスキオペットは、現代的なクリーンで安定した白ワインの醸造をフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のトレードマークとして、強烈に推進した。若き日のヨスコ・グラヴネル(後に詳しく記述する)も、スキオペットに学んだ一人である。

スキオペットの革命を、「伝統を破壊した悪名高き革命」と捉える意見も散見されるが、筆者はこの革命を非常に意義のあるものだったと考えている。木訥とした古めかしい農村の多かったフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州は、2度の世界大戦により、経済的に疲弊しきっていた。スキオペットの革命は、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のワイン産業を大きく発展させ、超大量生産型ワインの代名詞的産地と呼ばれようとも、世界のワイン産地マップに確かな名前を刻んだ功績は、紛れもない事実だからだ。

仮定の話にはなるが、オレンジワインの復活が、世界的に著名なフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州に位置するオスラヴィアではなく、当時世界のワイン市場の中では、完全に無名と言っても過言ではなかったスロヴェニアのゴリシュカ・ブルダ(イタリアと国境を接するスロヴェニアの北西部で、かつてのゴリツィア県の一部)で始まっていたとしたら、世界的なオレンジワインの再興はかなり遅れていた、もしくは起こらなかった可能性すらある。皮肉なことではあるが、スキオペットの革命は、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州のワイン産業を発展させることによって、オレンジワイン再興の土台を築き上げたのだ。

*1:ドイツ帝国軍が参戦したカポレットの戦いを含めて12度とすることもある。

*2:第二次世界大戦終戦後に、ゴリツィア県の大部分がユーゴスラビアに割譲されたが、オスラヴィアはイタリアの領土として残った。

オスラヴィアの葡萄畑

オスラヴィアの胎動

1980年代に、超大量生産型産地であったフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州を、ファインワイン産地として押し上げたのは、ヨスコ・グラヴネルである。シャルドネ、ソーヴィニヨン・ブランといった国際品種(同州においては長い栽培の歴史があったが)を、温度管理機能付きのステンレスタンクで低温発酵し、フレンチバリックの新樽で熟成させたインターナショナルスタイルに仕上げ、極めて高い評価を得ていたのだ。しかし、躍進の原動力となったのは、ヨスコだけでは無い。彼の仲間達もまた、それぞれワインの品質を格段に向上させていた。興味深いことに、1985年から1999年の間、ヨスコ・グラヴネルが率いていた勉強会には、現在でもその名を轟かせる偉大な造り手達が集まっていたのだ。スタニスラオ(スタンコ)・ラディコン、エディ・カンテ、ラ・ビアンカーラのアンジオリーノ・マウレ、ラ・カステリャーダのジョルジョ(ジョルディ)・ベンサとニコロ(ニーコ)・ベンサ、ダリオ・プリンチッチ、そしてスロヴェニアのヴァルテル・ムレチニックといった面々である。

しかし、確かな成功の中にあって、ヨスコ・グラヴネルは行き詰まってしまった。インターナショナルスタイルで絶賛された彼のワインから、文化、伝統、テロワールといったワインにとってあまりにも大切なアイデンティティーが消失していたことに、気付いてしまっていたのだ。思い悩んだヨスコに、「古代メソポタミア文明のワイン作りを学ぶように」と助言した人物の一人は、高名なイタリア人ワイン評論家であるルイジ・ヴェロネッリだった。1980年代後半の時点では、ソヴィエト連邦の一部であったジョージアを訪問することは不可能に近いことであったが、ヨスコは限られた文献から学んだジョージアのワイン造り(地中に埋めたアンフォラを用い、ほぼ全く人為的介入をしない)に希望を見出していた。1994年には、醸し発酵で少量のワインを試験醸造した。雹害で収量の大半を失った1996年に、(ある種の”開き直り”もあったのだろう)さらにその手法を推し進め、1997年には、秘密裏に入手した230Lのクヴェヴリ(ジョージア式のアンフォラ)で試験醸造をしたことをきっかけに、全ての白葡萄をスロヴェニアン・オークの大樽で醸し発酵するようになった。

一方、ヨスコのかつての盟友であったスタンコ・ラディコン(1999年ごろに、ヨスコから一方的に袂を分かった)も独自に原点回帰への道を歩んでいた。「赤ワインのような複雑さをもつ白ワインを、できるだけ自然な醸造で造る方法」を考えていたスタンコが、父のエトゥコが行なっていた醸しの工程をヒントに、最初に醸し発酵の試験醸造を行なったのは1995年。そして、1997年ヴィンテージから全ての白ワインを醸し発酵で仕込み、以降数年間の間、様々な醸し発酵期間を実験しながら、現在の2~4ヶ月間のマセレーションというスタイルに落ち着いた。スタンコはこの頃から、樽熟成、瓶熟成共に三年以上という非常に長い熟成期間を取るようになった。

1997年ヴィンテージは、ヨスコとスタンコが共に全ての白ワインを醸し発酵に切り替えた、まさにオレンジワイン再興にとって歴史的なヴィンテージとなった。グラヴネルの1997年ヴィンテージが市場にデビューしたのは2000年。しかし、その評価は全く芳しくなかった。イタリアワインの市場において、あまりにも強大な影響力をもっていたガンベロ・ロッソ誌にて、ヨスコの1997年ヴィンテージは「ヨスコは気が狂った!」と酷評を受け、予約されていた1997年ヴィンテージの80%近くが返品、ないしはキャンセルされた。苦悩の果てに辿り着いた原点回帰という道を、無惨にも否定されたヨスコは酷く打ちひしがれた。

リリースの遅いラディコンが後に販売した1997年ヴィンテージも同様に、既存の顧客を大いに困惑させた

最初期の多様性

ヨスコ・グラヴネルとスタンコ・ラディコンは、ある種の強烈な表現でもって、オレンジワインの価値を世に問うこととなったが、同時期に彼らの仲間達や、まだ見知らぬ才能も動き出していた

ラ・ビアンカーラを率いるアンジオリーノ・マウレは、人為的介入を極力減らした醸造に突き進みながら、醸し発酵にも挑戦した。アンジオリーノは当時、長期間のマセレーションには懐疑的だったと言われ、実際に彼のフラグシップ・ワインである「サッサイア」に施したマセレーションは1~2日間程度だった(後に長期間のマセレーションにも挑戦した)とされる。非常にライトなマセレーションによるオレンジワインというスタイルは、最初期の頃から既に生まれていたのだ。

ラ・カステリャーダジョルディ・ベンサニーコ・ベンサも、ヨスコ・グラヴネルやスタンコ・ラディコンと足並みを揃えるように、1995年から醸し発酵の試験醸造を始めた。彼らは後も、やや限定的な形で白葡萄の醸し発酵を採用し続けたが、ベンサ兄弟のあまりにも偉大な功績は別のスタイルのワインに宿ることとなる。ピノ・グリージオ・ラマートだ。従来のラマートは、ピノ・グリージオを8~36時間ほどマセレーションした、やや褐色がかった淡いピンク色の外観を呈したワインであり、ロゼワインや白ワインの範疇を大きく超えるものではなかった。しかしベンサ兄弟は、超大量生産型ワインのために、超多収量が当たり前であったこの葡萄を極限まで凝縮させた上で、2週間以上という長いマセレーションを施すことによって、ラマートという伝統を別次元に進化させた。現在世界中で造られているグリ色葡萄を用いたオレンジワインの全ては、直接的ないしは間接的にラ・カステリャーダのピノ・グリージオ・ラマートから影響を受けていると言っても過言では無い。

フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州におけるオレンジワイン再興が、オスラヴィアを中心に動いていたことは間違いない。しかし、南側のトリエステ県・カルソの地に、若き天才が出現した。パオロ・ヴォドピーヴェッツだ。1997年から、弟のヴァルテルと共に、葡萄農家からワイナリーへと転身したパオロは、カルソの重要な地場品種であるヴィトフスカを10~15日間マセレーションし、大樽で3年間熟成させるというスタイルで、驚異的なオレンジワインを創り上げた(本人はオレンジワインと呼ばれることを非常に嫌っている)。ヴォドピーヴェッツの圧倒的なバランス感覚は、彼の尋常では無い献身と観察眼、審美眼に基づいていると考えられるが、ともすれば極端な表現(当時のクリーンな白ワインに支配されていた市場の中では)として、賛否両極端の状況にあったヨスコ・グラヴネルやスタンコ・ラディコンのワインと比べても、ヴォドピーヴェッツのスタイルには、中庸の美があった。中庸の美というのは、多くの場合一般消費者には分かりづらいものだ。ヴォドピーヴェッツも例外なく、その魅力が一般に理解されるのには時間を要したが、ワイン業界内部に対しては、猛烈なスピードでその衝撃が伝わった。2000年代はまだ、長期間のマセレーションをした(強い酸化的特徴を伴った)極端なワインしかオレンジワインと見なされていなかった中で、ヴォドピーヴェッツのもたらした「調和とエレガンス」の表現は、まさに革命の狼煙であり、希望の光でもあったのだ。

美しいトリエステの街並み

スロヴェニアの太陽と月

第二次世界大戦後、社会主義国家であったユーゴスラビアに割譲された、かつてのゴリツィア県の大部分は、イタリアに残ったオスラヴィアやトリエステに比べても、長い間悲壮な年月を過ごしてきた。この地で長年葡萄農家やワイナリーを営んできた造り手達は、政府に所有地を没収され、大量生産型ワインの「製造」に加担することを余儀なくされた1980年代後半に、ユーゴスラビアが共産主義から離脱して市場経済へと転換していく中で、ようやくワイン造りにも自由が戻り始めたが、1991年にユーゴスラビアからスロヴェニアが独立を果たした時には、かつての伝統は既に、息も絶え絶えとなっていた。また独立後すぐの深刻な経済難と、ワイン市場における無名度は、ゴリシュカ・ブルダから1kmと離れていない、隣国イタリアのオスラヴィアとは、何もかもが異なる悪条件からの再出発を余儀なくさせた。

スロヴェニア領ゴリシュカ・ブルダ(とその僅か南東に位置するヴィパーヴァ峡谷)の復活は、イタリア側のオスラヴィアやトリエステに大きく遅れをとったものの、その道のりは、イタリアとの2つの異なる繋がりから生まれた。そしてその2つの繋がりに関わる2人の人物は、まるで太陽と月のように異なる。

アレシュ・クリスタンチッチは、ゴリシュカ・ブルダの太陽だ。Moviaの名で知られる彼のワイナリーが所有する畑は、1947年におおよそ半分ずつイタリア領とスロヴェニア(ユーゴスラビア)領へと分割された。全ての葡萄は、合法にスロヴェニア産として瓶詰めすることができたが、アレシュほど、国境という政治的境界線に激しい怒りを抱き続けてきた造り手はなかなかいないだろう。しかし、彼にはその怒りを、明るい太陽のように強く輝くものへと転化させる、天性の資質があった。2010年の冬だったと記憶しているが、筆者がアメリカ・ニューヨークでソムリエとして働いていた時、パオロ・ヴォドピーヴェッツと共にニューヨークを訪れたアレシュと出会っている。まさに、無尽蔵のエネルギーをリミッター無しで全開に放出し続けているようなアレシュの手は、驚くほど大きく、硬く、そして土が深く染み込んだ農家の手であった。テイスティングでは彼のオレンジワインであるLunarを大きな声を張り上げて語り、テイスター達の目の前でスパークリングワインのデゴルジュマンを大失敗して、大袈裟すぎるほど吹きこぼしては豪快に大笑いし、アフターワークで集合したソムリエたちとの深夜の懇親会では、淡々と話しこむパオロ・ヴォドピーヴェッツを横目に、躍り狂っていた。世界でも最も重要な市場の一つであるニューヨークのトップ・ソムリエ達の間から、スロヴェニアワインに対する偏見が消え去った瞬間だった。

ゴリシュカ・ブルダの葡萄畑

は、ゴリシュカ・ブルダからほんの少し南東に下ったヴィパーヴァ峡谷に在った。ヨスコ・グラヴネルの勉強会の一員であり、スロヴェニアからの唯一のメンバーでもあったヴァルテル・ムレチニックだ。勉強会に参加し始めた当時、近代的なワインで既に大きな成功を納めていたイタリアの「裕福な」仲間達とは違い、ヴァルテルには最新のステンレスタンクや高性能プレス機、高価な新樽を買うお金が全くなかった。しかしヴァルテルの経済的な困窮は、結果的に彼のワインのスタイルを強固なものにしたのではないだろうか。多くの実験を繰り返した(繰り返すことができるだけの経済的基盤があった)ヨスコ・グラヴネルやスタンコ・ラディコンに比べ、ヴァルテルは寄り道をすることなく、真っ直ぐに道を歩むことができた。19世紀中頃のスロヴェニアの文献からマセレーションを学び、農薬に頼らない栽培の探究と共に、圧倒的な古典美を完成させたヴァルテル。穏やかで知的な彼は、底抜けに明るいアレシュ・クリスタンチッチとはまるで真逆の個性をもった、静謐な月のような存在だ。

世界各国への飛躍

1997年ヴィンテージという重要なきっかけから10年程度は、オレンジワインはまだまだ極めてニッチな存在であった。風向きが変わり始めたのは、2010年代に突入する少し前頃からだろう。多様性と個性を柔軟に偏見なく受け入れるミレニアル世代の台頭、オレンジワインそのものの生産者、生産量、生産国の増加、ペアリングを含めたクリエイティヴ・ツールとしての役割、リヴァイヴァル・カルチャーとしての側面、飛躍の理由は複合的なものであると推察されるが、過去10年間の間に、オレンジワインが第四のカテゴリーとしての地位を確かに固めたのは間違いない

オレンジワインのスタイル

オレンジワインの再興が始まったオスラヴィア、トリエステ、ゴリシュカ・ブルダ、ヴィパーヴァ峡谷では、最初期からかなりの多様性が見られていたが、現在世界中に広がったこの製法は、さらにその表現を押し広げている。現在のオレンジワインは、添付の表のように分けることができる。

表に記した通り、筆者は、オレンジワインのスタイルの認識において重要な指標となるのは、マセレーションの日数ではなく、酸化的特徴の強度だと考えている。マセレーションの日数は、使用する葡萄の品種や品質、発酵温度、発酵槽の種類等によって、結果が大きく変動する。つまり、変数が多い。一方で、酸化的特徴に関しては、亜硫酸の添加量と添加タイミング、熟成槽から目減りしたワインの補填(ウイヤージュ)の頻度等、比較的変数が少なく、またその変数もコントロールが容易なものが多い。

オレンジワインの再興は、確かに相当程度ナチュラル・ワインのムーヴメントと関連付けられるものではあるが、オレンジワインを、赤、白、ロゼワインと並ぶ、一つのカテゴリーとして認識していくためには、様々なスタイルを包括できる考え方が必要になる。

残念なことではあるが、強度の酸化的特徴を伴ったタイプの中には、果皮に含まれるポリフェノールがもつ抗酸化能力への過信からか、亜硫酸添加を拒絶したもの(もしくは少な過ぎる)が多く、そのようなワインは決して許容できないほど高い割合で、ネズミ臭を含む強度の欠陥的特徴を伴う。時代は既に、クリーン・ナチュラルへと大きく動いている中で、極端なタイプのオレンジワインしか認めないのであれば、オレンジワインの運命の行き先は、緩やかだが確実な死と考えて間違いない

後編では、オレンジワインの祖国ジョージアの話を中心に、味わいやペアリングに関しても議論を展開していく。

参考文献:Amber Revolution(Simon J Woolf著)、The Wines of Georgia(Lisa Granik MW著)