2022年10月15日11 分

復活の起点 <ギリシャ・ナウサ特集:導入編>

アラビア半島を飛び立った私は、砂海に浮かぶ星々のように小さなギザのピラミッド群を眼下に収め、荘厳なアクロポリスなる霊峰オリンポスを横切りながら進んだ。

古代の神秘を巡るその道のりはまるで、けたたましいエンジン音を撒き散らす無機質な巨塊ではなく、優美に羽ばたく大鷲の背に乗っているかのように軽やかで、ずいぶんあっさりと、私は幻想の世界に没入していった。

そして、アレクサンドロス大王が治めた地に降り立った私は、強引に現実世界へと引き戻された。私が向かった先は、皆が思い浮かべるような、碧い海に囲まれた美しい島々ではない。そこは、激しく隆起する大地と混じり合うように拓かれた小村が点在する山の国、マケドニア。ギリシャでありギリシャではない、歴史的、文化的にも極めて独自性が強いこの地には、世界中が注目する一つの小産地、ナウサがある。

東から西へ 〜古代ワイン文明の中心地ギリシャ〜

ギリシャにおける最も原始的なワイン造りの痕跡は、少なくとも紀元前4,000年、おそらくは4,500年ごろまで遡れると考えられている。どちらにしても、ギリシャがワイン産地として最古のグループに属しているのは間違いない。ジョージアのコーカサス地方、トルコのトロス山脈、イランのザグロス山脈北部のいずれかで、8,000年以上前に世界で初めて誕生したと推測されるワイン文化は、ティグリス・ユーフラテス川を伝ってメソポタミアを経由した後、フェニキア人によって地中海のクレタ島へと渡った(エーゲ海の島々に最初に渡ったという説もある)と考えられている。

しかし、古代ギリシャにおいて本格的な葡萄畑の拡大が始まったのは紀元前3,300年ごろから始まる青銅器時代に入ってからで、より洗練されたワイン造りの技法はそのさらに数百年後、ナイル川を利用した通商で栄華を極めていた古代エジプトから学んだ

古代エジプトの技術、そしてワインと神々との繋がりは、クレタ島を中心としたミノア文明へと伝えられ、後のミケーネ文明(紀元前1,600年頃から)へと受け継がれた頃には、文化的、宗教的、経済的にワインが極めて重要な役割を担うようになっていた。

特にこの時代には、線文字Bと呼ばれる古代文字で葡萄畑、ワイン造り、ワイン商に関する詳細と共に、ギリシャ神話に登場するディオニソスをワインの神とする明確な記述が、数多くの石板に刻まれた。

紀元前750年頃(アルカイック期)になると、古代ギリシャは地中海の覇者として、積極的に領土を拡大し始めた。最初期の植民地であるシチリア島を中心とする南イタリアや、マルセイユ近郊の南フランスでは、自生していた葡萄からギリシャ人がワインを造り始めた。現在ワイン産業の世界的中心地となったフランス、イタリアのワイン造りは、ギリシャ人が築いた礎の上に発展していったと考えられているのだ。

紀元前31年から始まったローマ帝国による完全占領期、紀元後395年からの東ローマ帝国時代も、古代ギリシャ勢力はワイン造りにおいて重要な立ち位置にあり続け(特に7世紀以降の東ローマ帝国はビザンティン帝国とも呼ばれ、公用語もギリシャ語となり、古代ギリシャの文化的影響が色濃く反映されていた。)、1,453年にコンスタンティノープルの陥落によって、1,830年まで続くオスマン帝国支配下時代に突入しても、イスラム教の教義に基づく禁酒文化のあった巨大国家の中で、(ある程度の文化的自由は認められていたため)ワイン文化を育み続けてきた。

ギリシャがギリシャとして、長らく完全な一国家としての自立性を取り戻せずにいる間に、ワイン文化の中心地は、フランス、イタリア、スペイン、ドイツといった西欧諸国へと完全に移っていたが、中欧諸国、東欧諸国、そしてエジプトとのワイン通商は20世紀初頭までギリシャワイン産業を潤わせ続けた。

その後はフィロキセラベト病の到来、第一次、第二次世界大戦と他国と同じ苦難にさらされ、終戦後も内戦と軍事政権による疲弊が続いたギリシャでは1970年頃までには多くの葡萄畑が破壊され、荒廃の一途を辿っていた

そんな中でギリシャワイン復興の狼煙が上がったのは、マケドニアの小産地ナウサだった。1971年にナウサがギリシャ初の原産地呼称(PDO)を獲得したことをきっかけに各地で続々とPDOが誕生した。

先陣を切ったナウサは長らくスローペースを維持することとなったが、サントリーニ島のアシルティコや、ネメアのアギオルリティコの躍進もあり、ギリシャワインはまた着実に前へと進み始めたのだ。

さらに、2004年のアテネ・オリンピック開催が旧体制との決別、そしてギリシャ新時代の到来を象徴するイベントとなった(2010年のギリシャ危機もあったが)ことから、ギリシャワインはついに、世界の目に再び触れることとなった。

ギリシャワインとPDO

ギリシャにおける原産地呼称制度は、PDOPGIという2階層制になっている。PDOはフランスにおけるAOCに相当するが、基本的には狭域から中域の範囲となり、使用可能葡萄品種と認可ワインタイプがはっきりと定められている。現在ギリシャには33のPDOが認定されているが、その多くが甘口ワインに与えられているため、現実的に重要度が高いと言えるのは7つしか無い。その7つのPDOに関連した葡萄品種、重要ワインタイプを以下に挙げておくので、ギリシャワインを学ぶ際の参考にしていただきたい。並びは順不同となる。

・PDO Naoussaナウサ:Xinomavroクスィノマヴロ(赤)

・PDO Amynteoアミンテオ:Xinomavroクスィノマヴロ(赤、ロゼ、ロゼスパークリング)

・PDO Santoriniサントリーニ:Assyrtikoアシルティコ(白、極甘口)

・PDO Nemeaネメア:Agiorgitikoアギオルギティコ(赤)

・PDO Robola de Cephaloniaロボラ・ド・ケファロニア:Robolaロボラ(白)

・PDO Sitiaシーティア:Liatikoリァティコ(赤)

・PDO Patrasパトラス:Roditisロディテス(白)

もう一つの原産地呼称制度であるPGIはフランスにおけるIGPに相当し、基本的には広域の範囲となり、かなり緩い規定となっている。その総数は114で、現時点で重要度が高いと言えるPGIはほとんど無いが、ナウサとPGI Imathiaイマシア、パトラスとPGI Slopes of Egialiaスロープス・オブ・エギアリアなど、重要PDOと関連性が高いPGIも存在している。ギリシャワインの難点として、PDOはその地域の中でも際立って特殊性が高く、長らく伝統とされてきたワインに与えられているため、各地域の優れたワインを全てカヴァーしている訳ではない。つまり、PDOとPGIの間に、明確な品質の優劣は認め難いということだ。

ナウサ

ナウサは街の名前でもある。人口2万人強という規模だが、オスマン帝国に長らく占領されていた歴史を反映してか、ギリシャ様式とオスマン様式が入り混じった独特の建築物が目に飛び込んでくる。オスマン帝国からのギリシャ独立戦争時に、この地では大規模な戦いと虐殺が起こり、その爪痕は今もなお、街外れの破壊された城壁跡や少し陰鬱とした空気に残されている。メインストリートに並ぶ異様に洒落たバーに集まる着飾った若者たちと、薄暗い細道のスポーツバーでサッカーの試合に熱狂する高齢者たちのコントラストには、奇妙さすら覚える。ほぼギリシャ人しか住んでいないのに、あべこべが混ざり合い、共存する街ナウサは、ワイン産地としてのナウサとも不思議な繋がりを感じずにはいられなかった。

ギリシャ第二の都市テッサロニキから西へ約110km、ヴェルミオ山脈の麓にあるナウサは、確かにほとんどのワインファンにとって、新しい産地だろう。しかし、歴史的に見れば、ナウサが「ワインの世界地図」に載ったのは、4,000年ほど前のことになる。この頃には、ナウサの赤ワインはギリシャを代表するワインとしてヨーロッパ諸国に名を馳せていた。ギリシャ神話に登場するディオニソスの母セメレーが、この地を故郷と呼んでいたことからも、ナウサが常にギリシャの中で特別な場所だったことが伺い知れる。

地中海ワイン通商の覇権を握っていた紀元前350年頃のギリシャでは、すでに長距離運送、長期保存を目的としたレッツィーナ(松脂を添加したワイン)やヴェルモット(ニガヨモギなどの香草を配合したフレーヴァードワイン)が開発されていたが、酸とタンニンが強く、高い長期熟成能力を元から備えていたナウサの赤ワインはそれらの保存手段とは無縁だった。副原料を加えたオルタードワインが主流だった時代にあって、葡萄のみを原料としたピュアワインとして楽しむことができたナウサは、想像もつかないほど価値が高く、貴重なものだったのだ。

そんなナウサにも、歴史が積み重ねた傷が深い影を落とし、ワイン産地としての復興と伝統の維持を半ば諦めかけていた時期があった。1990年代からは多くの葡萄が他の果樹へと植え替えられ、残ったワイナリーの多くもまた、ヨーロッパ他国の例に漏れず、藁にもすがるような思いで、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルロー、シラー、シャルドネに手を出した。クスィノマヴロという、ギリシャワインが世界に誇る最大の宝が目の前にあったにも関わらず、生き残るために異物を受け入れてしまった。皮肉なことに、そのクスィノマヴロがようやく再び脚光を浴びた頃には、フランス外のヨーロッパ伝統国で造られるフランス品種のワインに、世界市場はすっかり興味を失ってしまっていた。しかし、不幸中の幸いか、当時経済的な危機も抱えていたナウサには、僅かな葡萄しか植え替える資金力しかなかったため、現在では地元消費用の低価格ワインを中心に、クスィノマヴロ(赤ワインとしても、ブラン・ド・ノワールとしても)とそれらの葡萄をブレンドしたワインが造られているにとどまっているし、世界に目を向け始めたナウサの造り手たちは、オリジナリティへの回帰に重きを置いている。

その過程の中で、Preknadiプレクナディ(白葡萄)やNegoskaネゴスカ(黒葡萄)といった、クスィノマヴロと共にナウサで大切にされてきた地葡萄の多くが失われてしまったが、現在はそれらの品種を復活させようという取り組みも広がっている。

総合的に見れば、近代ナウサの歴史は最も古くても50年ほど前、現実的には20年ほど前にようやく始まったと言えるだろう。

極めて古く、極めて新しい産地でもあるナウサ。

ワイナリーの数は20軒程度しかない。葡萄畑の総面積は500ha程度しかない。

PDOが認めているワインは、ただ一つの品種から造られる赤ワインのみ。

それでも世界は瞬く間に、ナウサをギリシャ最高の産地の一つとして、いや世界に名だたる銘醸地として、再認識した。

筆者の経験と照らし合わせてみても、これほど短期間の間に地葡萄に特化した小産地が世界的脚光を浴びたのは、スペインのプリオラートイタリア・シチリア州のエトナ火山ぐらいしか思い当たらない。

プリオラートとエトナに共通しているものは、偉大な地品種、偉大なテロワール、そして複数の偉大な造り手たちの存在だ。

そう、私の旅は、確かな疑問と共に始まった本当にナウサという地は、クスィノマヴロという葡萄は、この異常とさえも言える熱狂にふさわしいのだろうか、と。

クスィノマヴロとナウサ

直訳すると「酸っぱい黒葡萄」となるクスィノマヴロは、ナウサが原産地の可能性が高いとされている。樹勢が強く多収量型のクスィノマヴロは、キャノピーマネージメントを徹底しないとなかなか熟さないことでも知られ、ベト病とボトリティスに耐性が低いのも、難点として挙げられる。糖度とポリフェノールが十分な熟度に到達しても、極めて強い酸と屈強なタンニンを維持するため、ワインが若い間はかなり刺激の強い味わいになる。また、果皮に含まれる色素が薄く、色調の安定性に著しく欠けるため、かなり若い段階から褐色化が進む

このような難しさもあってか、今やギリシャで二番目に多く植樹されている黒葡萄となったクスィノマヴロで100%が義務付けられているのはナウサと、その北西部に位置するアミンテオのみである。ナウサから遠く東に位置するPDO Goumenissaグメニサではネゴスカ種を最低20%使用する必要があり、遠く南東に位置するPDO Rapsaniラプサニでは、Krassatoクラサト、Stavrotoスタヴロトという地品種がほぼ同量でブレンドされる。またナウサにおいても、メルローやシラーをブレンドするという手段には、クスィノマヴロの頑なな性質を和らげる策という一面も多少はあったが、PDOでは認められていない。

クスィノマヴロの品種特性を説明する言葉として、「ピノ・ノワールとネッビオーロの中間」といったフレーズは世界的に用いられてきた。遺伝子的にはこれらの品種とは関連性が認められていないものの、言い得て妙というのは確かに筆者も感じてきた。

しかし、その説明から明確に抜け落ちていることが二点あることに、今回の旅ではっきりと気づいた。一つは、クスィノマヴロのテロワールとヴィンテージの個性に極めて敏感に反応する性質。もう一つは、ナウサという地の、多様なテロワールと振れ幅の大きいヴィンテージ・ヴァリエーションだ。

クスィノマヴロという葡萄は、テロワールとヴィンテージの性質によって、極めてピノ・ノワール的になることも、極めてネッビオーロ的になることも、中間的な性質になることもできる。

つまり、常に中間にいるのではなく、幅広いグラデーションのどこかを頻繁に移動しており、そのマトリックスもまた複雑だ。

だが冷静になってみれば、そういうところもまた、ナウサらしいし、マケドニアらしいと言えるのではないだろうか。

ここは、フィリッポス2世の招聘を受けたアリストテレスが、幼少期のアレクサンドロス大王とプトレマイオスに、ソクラテスからプラトンへ、プラトンからアリストテレスへと受け継がれてきた膨大な知の集積を注ぎ込んだ地だ。

物事の単純な理解というのは、どこよりもこの地にふさわしくない。

後編となる<導出編>では、ナウサに集まる熱狂への疑念と筆者が達した結論、そしてクスィノマヴロが見せる驚異的な多様性を、現地で訪問した数々のワイナリーと、そのワインを通じて追っていく。