2022年2月2日5 分

暗記の時代は終わったのか

ソムリエやワインエキスパート、WSET等のワイン関連資格試験にチャレンジしたことのある人なら、理不尽なほどの膨大な暗記に苦しんだ記憶があることだろう。

終わりの見えない暗記によって、ワインが嫌いになってしまった人も少なくないはずだ。

中には、「重箱の隅をつつくような知識」が本当に役に立つのかと激しい疑問を覚えながら、苦行を乗り切った人もいるだろう。

それに、せっかく暗記した知識が、霞のように消えていく虚しさも、多くの人が味わったに違いない。

暗記に意味がないとは決して言わない。それだけの奥深い世界が広がっていることを実感すること自体には、確かな意味があるからだ。

検索エンジンや電子書籍が高度に発達する前は、一流のワインプロフェッショナルとはつまり、「歩く百科事典」的な人のことを意味している側面があった。

驚異的に詳細な情報を、大量に記憶したワインプロフェッショナルこそが、尊敬の対象だったのだ。

しかし、時代が変わった。

もはや、情報の正確な記憶とスピーディーな引き出しという点において、99.999999%の人類は、外部記憶装置に完全敗北を喫している。

しかも、ワインの情報は常にアップデートされ続けている

毎年必ず新しいヴィンテージが訪れ、新しい造り手と新しいワインが生まれ、古い造り手は世代交代し、見知らぬ品種や産地が注目され、新たな原産地呼称が認定される。

自らの記憶領域にある古い知識の全てを常時アップデートしながら、記憶のストックを増やし続けるのは、もはや常人には不可能とすら言える作業だ。

メモリとディスク

そういう筆者も若い頃は、がむしゃらになって暗記を繰り返していた。

そして、実に遺憾だが、その時に記憶した知識のかなりの割合が、既に脳内で意味消失している。鍵がないと開かない引き出しに入れられてしまった知識は、鍵を探すというステップが挟まることによって、極端に有効性が落ちてしまうのだ。

筆者の暗記に対する考え方は、この問題に長く向き合ってきた結果として、随分と様変わりした。

人の記憶と思考の機能を単純化してコンピューターに例えると、メモリとディスクに分けて考えることができるだろう。

メモリは、記憶容量は小さいが高速。

ディスクは、記憶容量は大きいが遅い。

旧来のワインプロフェッショナルは、ディスクにどれだけの知識を詰め込めるかを重視してきたが、前述した通り、もはや外部記憶装置の方が記憶容量、スピード、正確性において圧倒的に優れている。

ではメモリはどうだろうか?

筆者はこのメモリの部分にこそ、「人が人である意味」が存分に残されていると思う。

ボルドーを例に話をしよう。

ボルドー左岸には、有名な1855年のメドック地区格付けがある。

格付けされたシャトーは、分割や消滅を繰り返し、現在では61。

それら61のシャトーを、格付けの順位、所在する村、セカンドラベル、シャトーの歴史、味わいの特徴などを含めて全て記憶するのは大変な労力を伴う作業だ。

しかも、記憶するだけでなく、淀みなくその情報を脳内から引き出せるようになるには、さらなる過酷な修練が必要となる。

実は、この記憶した情報をスピーディーに引き出す、という機能はメモリが担っている。つまり、ボルドー左岸格付けシャトーのあらゆる情報をスムーズに引き出すには、膨大な情報を全て、メモリに入れておく必要があるということだ。

しかし、そのような情報は例外無く、Googleで検索すれば瞬時に出てくる。しかも、正確だ。

筆者はこのようなメモリの使い方を、「メモリの無駄使い」と考えている。

メモリに記憶させておける情報は非常に限られているのに、Googleの方が速くて正確な情報で埋めてしまうことに、どれだけの意味があるのか。ワインの情報そのものが極端にボリュームアップした現代を生きるワインプロフェッショナルは、メモリの使い方をもっと真剣に考えるべきではないのだろうか。

では、より現代的、かつ「人だからこそ可能な」メモリの使い方とはどういったものなのだろうか?

例えば、誰かにボルドーワインを勧める際に、相手の好みを探りながら、可能な限り好みに近いと思われるワインを、予算との駆け引きをしながら導き出すというシチュエーション。

「好み」という極めて主観的なものを分析し、数多ある可能性から最も有効性の高い答えを導き出す。

このような「ニュアンス」をくみ取ることが重視されるプロセスは、現代の外部記憶装置では、まだ正確な処理ができない。ビッグデータとディープラーニングの進歩は確かに目覚ましいが、コンピューターは相変わらず、「曖昧な情報」を処理することが非常に苦手なのだ。

しかし、人にはこれができる。

そして、そのためにこそ、メモリが活用されるべきではないのだろうか。

シャトー・マルゴー、シャトー・ラトゥール、シャトー・オー=ブリオン、シャトー・レオヴィル=ラスカーズ、シャトー・モンローズ。

これらのシャトーの個性を正確に捉え、自分なりに言語化し、簡略化した上でメモリにしっかりと記憶させておいた上で、相手のニュアンスとの整合を図れば、スーパーコンピューターをもってしても難しいような処理が、人には瞬時にできてしまう。

21世紀に入ってから、人工知能やロボット技術は凄まじいスピードで進歩している。多くの職が、より優れた代替手段によって消滅してもきた。

しかし、ワインプロフェッショナルという仕事は決して無くならないだろう。人にしかできないことと、コンピューターに任せた方が良いことの棲み分けを、人がしっかりと認識し続ける限りは。