2022年1月21日6 分

銘酒・而今が示す、日本酒の新たな価値

三重県名張市にある木屋正酒造が醸す銘柄「而今」は、当代随一の人気銘柄として、極めて高い評価を得ている日本酒。

酒蔵の創業は1818年。造り酒屋であった「ほてい屋」を、木材屋を営んでいた初代大西庄八が譲り受け、「木屋正」と改めた。木屋正酒造は長らくの間「高砂」と「鷹一正宗」の二銘柄を醸造し、地元を中心に販売してきたが、徐々に業績が悪化し、廃業の危機も間近に迫っていた。

転機となったのは2003年。理系エリートとして大手メーカーで技術職についていた6代目蔵元の大西唯克氏が、家業を引き継ぐ決意を固め、蔵に戻ってきたのだ。そして大西唯克氏は、2年間先代の杜氏と仕事をした後の2005年、自らが杜氏となり、「而今」銘柄を立ち上げた。

今でこそ1200石(1石 = 一升瓶 x 100本)の規模にまで成長した而今だが、発足当時の生産量は僅か30石。搾りたての而今が入った酒瓶を片手に、酒屋に営業周りをする日々が続いた。

惰性で造っていた酒から、名張の地を表現したアルティザナルな酒へ

徹底的に妥協を許さない完璧主義者。そのような印象を周囲に与える大西唯克氏が醸した而今は、瞬く間に人気銘柄へと駆け上がった。

華やかで鮮烈な香り、アタックの濃厚な甘味、とろりとした独特のテクスチャー、長く力強い余韻へとシームレスに続く旨味。「而今節」とでも表現したくなるような特異な個性を纏った而今の味わいは、極めてセンセーショナルで、魅惑的なものだった。

大西唯克氏は、極めて優れた造り手であると同時に、稀代のヴィジョナリーでもある。成功にあぐらをかくことは一切なく、利益を設備投資へと回し、モチベーションの高いチーム造りを行い、徹底した品質向上に邁進し続けてきただけではない。日本酒の魅力を細部まで見つめ直し、新たな価値創造も同時に行ってきた

仕込み水、酒米の品種、圃場のテロワール、麹造り、酸化防止、火入れ、といったあらゆる要素や工程で、常軌を逸していると言っても過言ではないほど、徹底したこだわりが而今には詰め込まれているが、詳細は本記事では割愛する。筆者が皆様に伝えたいのは、そこではない。伝えたいのは、而今という日本酒がもたらした、新たな価値観なのだ

木屋正酒造 6代目蔵元・杜氏の大西唯克氏

酒米

まずは、酒米。酒造好適米の王者は山田錦、というのが日本酒界における常識だが、筆者はかねてから別の見方をしてきた。それは、品種と造り手の相性だ。この手の話は、ワインならもっと分かりやすいのだが、日本酒ではなかなかイメージできない人も多いだろう。単純化すれば、ピノ・ノワールが上手な造り手もいれば、シラーが上手な造り手もいる、と言った現象とほぼ同じことが、日本酒造りにおいても起こり得るということだ。

以下の比較テイスティングからは、そのことが間違いなく確認できた。

1. 純米吟醸 八反錦 無濾過生(評点:90点正規価格:¥1,700/720ml

日本酒度:+1 酸度:1.8 アミノ酸度:1.5 アルコール濃度:16%

2. 純米吟醸 千本錦 無濾過生(評点:93点正規価格:¥1,800/720ml

日本酒度:+1 酸度:1.7 アミノ酸度:1.2 アルコール濃度:16%

3. 純米吟醸 山田錦 無濾過生(評点:92点正規価格:¥1,900/720ml

日本酒度:+1 酸度:1.7 アミノ酸度:1.1 アルコール濃度:16%

4. 純米吟醸 愛山 火入(評点:90点正規価格:¥2,200/720ml

日本酒度:0 酸度:1.6 アミノ酸度:1.3 アルコール濃度:16%

4の愛山のみ火入れであるが、全体的にデータ上は誤差程度の違いとなっている。

評点に関しては、「真・日本酒評論」と同じ観点からスコアを算出している。

ご覧のように、筆者の主観的価値判断によれば、千本錦が山田錦を上回る結果となった。これはひとえに、千本錦の個性と而今のスタイルが特筆すべき好相性を発揮している、という判断が反映された結果だ。

イチゴや生クリームを思わせる愛らしいアロマ。濃醇な風味の中に溶け込む、まろやかな味わいとシャープな酸のコントラスト。充実した旨味がにじみ出す余韻。而今の千本錦は、見事と言うしかない。

このように、造り手と品種の相性という観点を日本酒に加えると、非常に興味深い世界が広がっていることに気付かされるだろう。

酒米の等級とテロワール

特A、特上米、特等米。これらの言葉は、日本酒ファンにも馴染みあるものになりつつあるだろう。厳密に言うと、特Aという表記は食味官能試験による格付けである一方で、特上、特等といった表記は、整粒歩合、つまり米の見た目を重視した格付けであるが、共に品質との連動性が認められると考えられている。

而今のラインナップからは、この点に関して、二方向の価値観が示唆されているように思える。

1つ目は、単純な等級による品質の違い。

1. きもと 赤磐雄町(評点:90点正規価格:¥3,000/720ml

精米歩合:50% 木桶仕込み

2. 特等雄町 純米大吟醸(評点:96点正規価格:¥30,000/720ml

精米歩合:35% 

この2種の比較は、造りや精米歩合、販売価格の差が大きく、単純な比較は難しい側面もあるが、少し視点を変えれば、米の等級が日本酒に及ぼす多大なる影響が確かに見えてくる。日本酒では、精米歩合が低くなると、よりすっきりとした味わいになる、というのが一般論だ。そして、これは概ね正しいと言える。さらに、きもと造りをすればより濃醇に、木桶も味わいを加算する側面があるため、厚みが出る。

つまり通常であれば、精米歩合が高く、きもと造りで木桶も使っている1の赤磐雄町の方が、パワフルで重厚な味わいになる。

しかし、その一般論がこの比較には当てはまらない

明らかに、2の特等雄町の方が濃厚で、遥かにスケールの大きな味わいなのだ。

等級の高い米が、最終的な日本酒の味わいに与える影響はいくつか考えられるが、その中でもこのケースでは、構造の多層化、各レイヤーの密度とパワー、余韻の安定性と長さ、といった影響が顕著に現れている。

2つ目の価値観は、個人的にはもっと興味深い。

以下のラインナップを見ていただきたい。

1. きもと 東条秋津山田錦(評点:95点正規価格:¥3,000/720ml

2. 純米大吟醸 NABARI(評点:95点正規価格:¥5,000/720ml

3. 純米大吟醸 NABARI 斗瓶取り(評点:96点正規価格:¥8,000/720ml

東条秋津は、山田錦の特A産地の中でも、特に名高い地区として知られている。つまり、酒米の王者たる山田錦の頂点、とも言い換えることができる。

一方で、NABARIに使われた山田錦は、木屋正酒造のお膝元である名張の地で育てられた山田錦だ。

等級では東条秋津が上なのだが、1と2は同スコアを叩き出す結果となった。しかし、実は1の東条秋津山田錦は、酸化的要素が徹底的に排除された而今独自のきもと造りが、完全に未知の、そしてあまりにも素晴らしく洗練された味わいを実現していたが故の評点結果であり、仮に東条秋津山田錦がきもと造りでなかったとしたら、1点ほどマイナスだった可能性が高い。つまり、単純に日本酒としての本質の部分だけで言うなら、名張産の山田錦が上回っていたと、筆者は感じたのだ。

さらにNABARIは、筆者が10年以上前から主張し続けてきている、一つの仮説が正しい可能性を示唆しているように思える。

それは、地元の米を使った酒は全ての要素がより一体感を増す、と言う可能性だ。

地元米の使用は、日本全国の蔵元で、長い間試行錯誤が続けられてきた。

そして、筆者はこの「一体感」を非常に多くの地元米使用日本酒で確認している。品質鑑定においても、シームレスな味わいを実現する「一体感」は、重要な価値となり得る要素だ。

なぜ違いが生まれるのか。理由は定かではない。

もしかしたら、蔵の仕込み水と、米が育った場所の水質が近いからなのかも知れないし、他の理由があるのかも知れない。

どちらにしても、地元の米を使い、確かな個性と品質を実現することには、日本酒が今後ティピシテ(その場所らしさ)を獲得していくための、計り知れないほど重要な価値が眠っているのではないだろうか。