2022年6月28日16 分

自然農法の真理 <後編>

私は、昨年の春からこの冬の間中ずっと思い悩んでいたことがあった。

「なぜ人間は、野に舞う蝶や、空飛ぶ鳥のように自由に生きることができないのか…。」

その悩みに答えを示してくれたのが、福岡正信氏だ。

自然農法の大家、福岡氏の遺した数々の言葉。

それらは、表面的には非常に宗教色が強く思えるかも知れないが、その本質は大きく異なる

氏の鋭く、時に断定的な言葉使いを、断片として切り取ってしまうと、真意を読み誤ることもあるだろう。

よって、以降の内容を、宗教的という目線から考えないことを、強く推奨する

福岡氏の言葉も、本意としては様々な宗教を否定するものでは決してなく、氏の言葉をもとに書かれたこの記事もまた、宗教を否定する類のものでは一切ない

真理

福岡氏の「無の哲学」では、仏教における「空」の思想をもとにした、氏の思想が語られている。

福岡氏は著書で何度も「真理は一つだ」(絶対的真理)と言っているのだ。

その真理とは。

絶対的真理は、無力どころか、架空の概念を一時的に満足せしめるに役立つのみの科学的真理よりも、より強力に、現実の大地に立った永遠の指針となりうる真理である。

絶対的真理は、科学的真理が、現象界内でのみ通用する真理であり、その価値は時と場合で変転してゆく、その矛盾、欺瞞を常に批判し、破砕し、永遠に訂正する必要のない不変不動の強力な灯台となっている。」

「ソクラテス、キリスト、釈迦、世界の聖者と呼ばれる人たちは、期せずして大悟(回心)、現象界の自己を否定した“自己を知る”に出発し、真実の“自己に還り”、魂のふるさと、善、慈悲、聖愛に目覚めることを人々に呼びかけている。真理は一つである。到達した世界の根源は洋の東西を問わず時代を超え同一であり寸分のすきもない。」

真理は一つであり多くの流儀、流派、諸説があってはならない。一つの真理がわかれば、この世の一切は万華鏡で照らし出されるように一目瞭然、あらゆる疑問、矛盾、人間の苦悩が氷解するのである。」

真理が把握されたときは、“人間はいかに生くべきか”が当然の帰結として明確に浮かび出るはずである。」

「人間が自然に合一するとは、人間が自然の中に流れる真理の泉に身を浸すことである。」

(すべて「無の哲学」より)

著書の中で、真理を把握し神性をもつに至った人としては、釈迦、達磨、道元、老子、キリスト、マホメット、ガンジー、ソクラテスなどが挙げられている。

福岡氏にとっての「真理」とは、「空」であり「無」である。

そして、「空」であり「無」であるからこそ、真理は一つしかない、というのが、氏が至った大吾の境地なのだ。

神性

「キリスト教だ、仏教だ、イスラム教だなどとみんなが勝手に名前をつけて、いろいろな恰好で拝んだり祈ったりすることがすでに根本的な間違いであって、それは神でも仏でもない。」

(「自然を生きる」より)

「キリストも釈迦も、いかなる国の宗教界、思想界を問わず、聖者と言われるような人が把握した真理はみな同じただ一つの真理であり、神の子と名づけようと、仏陀、真人、仙人と呼ばれようと、その到達した世界は同じ世界であった。神は宇宙に瀰漫する。全世界の本姿が神である。人間の本姿が神である。」

「人間が振り返って、無知の智に還れば、我が手に抱く、無心の嬰児が神であるあることを知るのである。無心になれば、自己もまた神となる

人間はみな、過去において一度は神であったのである。神であった自己を忘れ、真の自己から離れて、虚像の自己を観念的に造り上げた。真人から俗人に自ら転落したのが人間である。」

「神は思考の彼方にあるのではなく、思考以前において、簡単に言えば、考えなければ神に会うことができる。手っ取り早く言えば、無心の人間は神であり、思考のない嬰児は神を知る人間であり、神の一人でもあった。」

神、仏は自己であり、その内容は真理の充満である。」

(すべて「無の哲学」より)

福岡氏にとっての「神」とは、まさに「無の哲学」そのものである。

それは、自然であり、森羅万象、絶対界に生きるすべてのものであり、さらに、絶対な真理を悟ることができれば、人間も神になれると語っている。

「無」=「神」と氏は説いているのだ。

悟り

「無」、「真理」、「神」

そしてそこにある「悟りの世界」とは。

「知を人間が掌中に握りつぶし、にしてしまったとき、人間は人間の知の外に立つことができる。それが不可知界であり、絶対界に立つことができたときでもある。それは人間の現象界をすべて消滅せしめた世界に人間が立っている状態を示している。言わば、人間が五感による自己意識一切を捨てきった時に現れる無心の世界に、人間が直面することである。それが人間以外の立場である、東洋の悟りの世界への到達というものである。」

「真の認識によって把握される真理の世界は、絶対界=覚界であり、覚界は、無分別の知によって覚知される悟りの世界で、時空を超えた世界超経験的世界で、絶対無(精神)の世界真理、実相の世界神の世界であり、そこにある(実在)ものは、覚者(真人)と大自然そのままのもので、悲哀を伴わない歓び(絶対的歓喜)と憎しみのない愛、永遠の大愛、無限の幸福があるのみである。」

(すべて「無の哲学」より)

「悟り」もまた、「無」であると氏は説いている。

人間の本質

「悟りの世界」とは真逆にある現実世界。そこに生きる人間。

なぜ人間という生き物だけが生き苦しむのか。

「人間の“なぜ”とはなぜだ?

 人間は不可知の世界を不可知として放置することができないで、なぜかと疑惑する。不可知の世界も人間にとっては、 不可知の世界という可知の世界、として到達しうると考えるがゆえに、不可知もまた可知の世界として錯誤する。

もし人間が、不可知をそのまま不可知とし、すなわち無となしうれば、人間は“なぜ”と反省し苦悶することもなかったであろう

池の中の魚にとっては、池以外の世界は、不可知の世界であり、無の世界であるがゆえに、彼らは池の外を思い慕って迷うことはない。人間は地上に立って、なお人間以外の立場に思いをめぐらす、やっかいな動物である

人間はいずこより来り、どこに住み、どこに去るべきかを知りうべくもなくして思い、昨日なぜ生まれ、今日いかにして生き、明日何のために死なねばならぬかを…常に想い、常に惑い悩んでゆく。疑惑の雲の中にただよい、迷う人間の生と死の姿、懐疑と苦悩に満ちた人生を、あえぎながらさまよい歩く人間の姿は、真に不可避の宿命であろうか。人間の立場が根本において不明であるという悲劇のゆえに、人間の生は死は、“なぜ”という懐疑の雲につつまれてゆく。だがそれにしても、人間の心の中に、なぜを“なぜ”とする懐疑がどうして湧かねばならぬのか。人間はなぜ“なぜ”を所有せねばならぬのか

池畔に咲く一茎の草花を凝視するとき、花の上に何の懐疑も見られない。この花には“なぜ”はない。

なぜ彼らの世界には、“なぜ”がないのであろうか。

彼らは自己を知らない。もとより生もなく死もない。自己を識らない彼らには、何の懐疑も起こりえない。

自己を識るという人間、生を知り、死を知る人間、そこに人間の懐疑の芽が発生する。人間が生と死を認識した。そのときから、人間は“なぜ”と思う心をいだくようになる。“どうして”と考えはじめるのだ。

人間は生きている…。しかもなお人間は生きねばならないと言う…。生が生と死に分離し、生と死が断絶したのである。この事柄を中心として、人間に数多くの苦労がつきまとって離れない

生命を保つために食物をとらねばならない。田畑を耕して作物を作る、家を建てる、衣物を織るなどが、そしてこれらはすべて、人間が生きていくためには当然必要な事として、人々は何の疑問を抱くこともないようである。

しかし、人間は生きている。この生きているという事実を直視するとき、そこには奇妙な矛盾が存在する。はたして人間にとり“生きねばならない”とする心が真実必要なことであり、人間が生きていくために食物をとり、家を建てるというようなすべての勤労が、絶対必要な事柄であろうか…。

考えてみれば、この生きねばならないという心は、この地球上の生物の中で、ただ人間のみが抱く心である。また生きるために必要とされる“仕事”と名づけられるものは、実にこの数多い生物界の中でも、ただ独り人間のみである。

無心に生い茂る草木、何の屈託もなく生きていく鳥獣、ただ地上に生え、ただ生きていく彼らの姿! そこには何の作意も手段も講ぜられることがない。しかもなお彼らは天命を保持していって何の苦労もない。

人間もまた一個の生物である。生物として地球に生まれ、出現し、成長していることは間違いがない…だのに、なぜ人間の上にのみ“生きねばならない、生きようとせねば生きられない”という言葉が必要なのか。また生きているために遂行させられるというあらゆる苦労を、なぜ他の生物と違って背負っていかねばならないのか?…。

人間は天命をもって生まれた。そして成長する。だのに人間が自ら人間は生きているという事柄を自覚し、そして考え、そして自分で生きようと覚悟したときから、人間は大自然の生命から離れ、独自で自分の生命を守るためのあらゆる努力をはらわねばならなくなった

人間が大自然の懷から離脱し、独自の生活を自らの手で始めた。それは他の生物とは全く離反した道であったが…そして人間は自分の手で生きねばならないと考えた時から、人類は永遠に解消することのない苦労の荷物を背負わねばならなくなった…

人間は生命を付与せられて地上に生まれた一個の生物である。人間が生物として地上に出現しえたという事実は、何よりも人間が大自然の児であり、自然のままにおいて当然生きゆきうる力が必然的に付与せられていることを意味する。

もし人間が、ただ天寿をまっとうして、生きてゆくのみで満足しうる生物で終わったなら、そして鳥が野の木の実をついばみ、蝶が蜜をたずねて生きてゆくように、もし人間が野の草を摘み、木の実を拾って食うことに満足しえたならば、人間にとって生きねばならぬという言葉は必要でなく、そして食物を作るという考えも、田畑を耕すという苦労も知らなくてよいはずであった。

(「無の哲学」より)

福岡氏の著書の中で、人間の核心に迫る重要な一文である。

「無の哲学」の根本的概念でもあり、人間がなぜ苦労の荷物を背負わなければいけないのかが書かれている。人間の本来の姿、「無」をもって生きることができれば、その荷を降ろすことができるのだと。

それは、氏の想う「無為な生き方」そのものである。

自然農法

福岡氏にとっての自然農法とは。

何のために、何を思いながら、自然農法を実践していたのか。

「無の哲学に立脚する自然農法の最終目標が、絶対真理 “空観“ にあり、神への奉仕にあることはいうまでもない。」

(「わら一本の革命」より)

「自然農法は、無為自然の根源(絶対者)に還るという究極の目標を目指して進む求心的凝結の農法と言える。これは最終的には、自然が保っている理法、調和、秩序の世界の中にとけこんで生きる真の人間作りを目標とする。」

「自然農法とは、人知も人為も加えない自然そのままの中に没入し、自然とともにいきいきと生きていこうとする農法である。どこまでも自然が主体で、自然がものを作り、人間はこれに奉仕する立場をとる。」

「農業の本来の在り方である自然農法は、無為自然、手も足も出さないダルマ農法である。」

「無為自然を本義とする自然農法が目指すものは、人知、人為によって破壊された自然の根源的復元であり、神から追放された人間の復活である。」

(すべて「自然農法」より)

「今までは、ああすればいい、こうすればいい、といって手を下す、それが発達だと思って盲目的に前進し、自然と闘争してきた科学というものが、ここらあたりで立ち止まってですね、私が米作り、麦作りでやってきたように、ああしなくてもよかったんじゃないか、というような方向を探求して、何もしないということをやることが、唯一の人間のなすべきことである。人間は何もしなくてよかったんだ。ただ生きていくだけで、そこに大きなよろこびがあるし、幸せがあったんだ。何かを獲得することによって、よろこびや幸せがもたらされるものではない、ということを知るようになってくれば、自然農法の使命というものも、おのずから達成されてくると思うんです。とにかく、自然農法を人間生活の起点にして、はじめて、本当の人類の幸福、未来の展望が開かれてくると思うんです。」

「私が考えている自然農法というものは、いわゆる科学農法の一部ではなく、科学農法の次元からはなれた東洋哲学の立場、あるいは東洋の思想、宗教というものの立場からみた農法を確立しようとしているんだ。自然農法の中にも、強いていえば、仏教でいう大乗的な自然農法と、便宜的な小乗的な自然農法がある。実践の上からいうと、小乗的な科学的自然農法でいいけれど、最終の目標っていうのは、単に作物を作るだけじゃなくて、人間完成のための農法になってなきゃいけないんだ。そういうことになると、一つの哲学革命である、宗教革命である。」

(すべて「わら一本の革命」より)

■大乗的自然農法

「人間の心、人間の生活が、大自然の営みに融けこみ、ただ自然に奉仕するだけで、そこになんら故意の人為的努力をしなくても、自然の恵みによって、自然のまま意のままに、自然の一員として生きていかれる。人間がそこまで自然と合一したとき成立する農法で、無為の、時空を超越した、悟りの極地における農法である。」

(「自然農法」より)

■小乗的自然農法

「大乗的自然農法の境地をひたすらに追究している過程で成立する農法である。人間は大自然の恵みを求め、これを受ける態勢を整える作業をする。それは悟りの極地を目指す一筋の道ではあるが、まだ完成していない。」

(「自然農法」より)

■科学的農法

「人間は根本的には自然から離反して、人為的世界に中に生活しながら、自然への復帰を願っている矛盾した状態でいる。そこに成立している農法である科学的農法は、自然の天恵も欲しい、人間の知恵も活用したい、と両者の間を無限にさまよっている無明の農法である。」

(「自然農法」より)

自然農法は一つの農法であるが、ただ一つの農法ではない。

四大原則である「不耕起、無肥料、無農薬、無除草」を守ることが、自然農法の実践ではあるが、それだけが自然農法の実践ではない。

その根本にある思想、哲学、真理をもとにおこなう農の実践と生き方。

いわば「無」であり「空」である「神」への奉仕、これが自然農法なのではないだろうか。

現在、福岡自然農園を管理する、正信氏の孫に当たる、大樹さん。

「何かに迷い、求めさまよう人間は、何かにすがり、何かを獲得し、前進しようとした。が、相対の世界からの脱却は、人間が獲得し前進する方向にはない。

多くを学び、知恵を獲得し、力と富と権力を使って、人間の真の歓びや、真の幸福が獲得せられると思うのは間違いであった。

大自然は完全である。実在は完全であり神である。もともと実在する人間は完全であったが、人間は自らを不完全にした。不完全な人間が、完全な人間へ復帰しようとする道、その道こそ人間が相対から絶対へ飛躍する道でもある。

獲得でなく放棄、前進でなく復帰、生命の延長でなく、生命の時空超越、有でなく無の世界への悟入こそ、人生の目標である。そして、人間がその目標に到達するにはただ…

“何もない。人間は何でもなかった。

何事を為したのでもなかった。為す必要もなかった。

自然の生命に帰ればよかった“

この徹底した大悟の心を知る以外に道はない。」

「人間は 何もしなくても 楽しかったのに 

 何かすれば 喜びが増すように思った

 物に価値があるのではないのに

 物を必要とする条件をつくっておいて

 物に価値があるように錯覚した

 すべては 自然を離れた人間の智恵の一人角力(ひとりずもう)だ

 無智 無価値 無為の自然に還る以外に道は無い

 一切が空しいことを知れば 一切が蘇る

 これが

 田も耕さず 肥料もやらず 農薬も使わず 草も取らず

 しかも驚異的に稔った

 この一株の稲が教えてくれる緑の哲学なのだ。」

 

(すべて「わら一本の革命」より)

「老子の言う小国寡民の里、独立独歩、自給自足の生活の中に人間の大道があることを、知らずして知っていたのも、昔ながらの百姓であった。」

(「自然農法」より)

願い

下記文章は、著書「わら一本の革命」最後のページに書かれている。

若くして大悟し、歓喜と苦悩のなか、その悟りを確信するために自然と向き合い「無の哲学」を実践された福岡氏。

自然界から離反した人間をことごとく否定批判し、自然農法というかたちで無為を証明し、人間が本来向かうべき道をしるしてくれた。

しかし、氏は何度も無念の思いを語っている。

「激しく展開してゆく世間では、百姓の愚痴話に耳をかす暇などなかった。」

インドでは最高名誉学位を授与され、アジアのノーベル賞と称されるフィリピンのマグサイサイ賞を受賞、世界では砂漠の緑化に貢献し、海外で福岡氏を尊敬する者は非常に多い。しかし国内では… 事実、農に従事する者でさえ知る人はあまりに少ない。

新型コロナ禍で世界の価値観が変わり、世界の流れは東洋的思想に傾く中、福岡氏の「無の哲学」に再び関心が高まっているのは必然である。

著書「わら一本の革命」の初版発行が、1983年5月30日。

40年近く前から将来の環境問題や人間の生き方を危惧していた氏の思い。

哲学へ逆行する社会への悲痛な思い。

科学を科学的に徹底的に懐疑し突き詰めようとしたその思い。

自然農法、粘土団子に秘めた想い。

百姓への愛と慈悲…。

福岡氏の叫び声が聞こえてくるようだ。

今こそ私たちは「無」に還るときである、と。

最後に

春のブドウ畑を舞うたくさんのモンシロチョウを眺めていてふと思った。

ひらひらと自由に舞い、お腹が空けば花の蜜を吸い、疲れたら花草の上で休み、雨が降れば葉裏で雨夜取りし、雄雌は求愛し..。

季節は春、花は咲き、彼らに必要なものは全て揃っている。

花たちは、蝶や虫たちに受粉してもらうために鮮やかな色、甘い香りで誘惑し、彼らに蜜を与えながらしっかりと花粉を運んでもらっている。

ただ自由に生きているようで、与えられた自然の恵みを存分に享受し、自然の循環のなか、摂理に従い、ほかのいきものと共存共栄している様。

鳥にしても虫にしても、花にしても雑草にしても、木々にしても。

すべては苦労することなく(苦労はあるかもしれない)自然に生きている。

しかしなぜ、人間は働き、時間なく、自由に生きることができないのか…。

悩み考えたが、自己解決できるものはなく悶々としている中、「わら一本の革命」を再度読み返し、そして、未読であったった福岡氏の著書4冊を読み始めた。

そこに全てが書かれていた。

福岡氏の「無の哲学」、学問としての仏教、老荘思想、東洋の哲学的思考、覚者たちの哲学。

数千年前から多くの人たちが同じことを思い悩んでいたのであった。

そして、多くのヒントが過去の偉人たちから既に与えられていた。

答えはそこにあった。もう思い悩む必要はない。

目指す道は一つである。

しかし、生きているのはこの現代社会という世界。理想と現実。その狭間。

でも近づきたい。どこまで近づくことができるのか。

ブドウ栽培。無の哲学をどこまで実践できるのか。

ここからは挑戦あるのみ。

もう迷いはない。

一からスタートである。

<筆者プロフィール>

ソン ユガン / Yookwang Song

Farmer

1980年宮城県仙台市生まれ。実家が飲食店を経営していたこともあり幼少時よりホールサービスを開始。2004年勤務先レストランにてワインに目覚めソムリエ資格取得後、2009年よりイタリアワイン産地を3ヶ月間巡ったのち渡豪、南オーストラリア「Smallfry Wines(Barossa Valley)」にて約1年間ブドウ栽培とワイン醸造を学ぶ。また、ワイン産地を旅しながら3つのレストランにてソムリエとして勤務。さらにニュージーランドのワイン産地を3ヶ月間巡り、2012年帰国。星付きレストランを含む、都内5つのレストランにてソムリエ、ヘッドソムリエとして勤務。

2018年10月家族で長野へ移住。ワイン用ブドウを軸に有機野菜の栽培をしながら、より自然でサスティナブルなライフスタイルを探求している。

2021年ブドウ初収穫/ワイン醸造開始予定。

現在も定期的に都内にてワインイベントやセミナーなどを開催。

日本 ソムリエ協会認定 シニアソムリエ

英国 WSET認定 ADVANCED CERTIFICATE

豪国 A+AUSTRALIAN WINE 認定 TRADE SPECIALIST