2022年3月5日3 分

比喩表現の罠

まるでブルゴーニュのようだ。

ブルゴーニュの一級畑を思わせる。

シャンベルタンにも比肩する。

ワインの世界において、最も頻繁に目にする比喩表現の一つが、「ブルゴーニュやボルドーに例える」ことだ。

かくいう筆者も、時折この表現を用いることがある。

一般的にはあまり馴染みのない産地や品種を語る時には、確かに便利な表現だ。

チャレッロの凄さを語り続けるよりも、ブルゴーニュに例えた方が多くの人には分かりやすいだろう。少なくとも、ワインにそれなりに明るい人が相手であれば。

今回は、この比喩表現を様々な角度から検証してみようと思う。

相手

まずは、大前提となる「伝える相手」の検証。

冒頭に挙げた3つの例を題材にすると、まずは「まるでブルゴーニュのようだ。」という最も初歩的な比喩の時点で、危うくなることが多い。その言葉は、ブルゴーニュが何か知っている人、にしか伝わらないからだ。特にワインを学んだ人が、ワインを知らない人に対して語る際に、この罠にはまってしまう。「ブルゴーニュくらい知っているだろう。」という、あまりにも上から目線な思い込みが、この罠に対する警戒心を無くしてしまうのだ。

次の「ブルゴーニュの一級畑を思わせる。」という表現もまた、問題が起こり得る。そもそもブルゴーニュの一級畑の全体像を理解している人にしか通じない、というのもそうだが、表現の対象が狭いようで広すぎるのも問題だ。特に、かなりワインに詳しい人に対して、この問題が生じる。「一級畑?ピュリニーの?ムルソーの?それともシャブリ?」となってしまいかねないからだ。

最後の「シャンベルタンにも比肩する。」の場合は、主観が問題となる。非常に高い可能性で、私と他の人のシャンベルタンに対する印象は異なるはずだ。つまり、その表現をした本人にとっては正確な比喩であったとしても、私にとっては理解が難しくなる可能性がかなりある。とはいえ、ここまで高レベルの比喩になれば、正直なところ「言ったもん勝ち」な部分もあり、「自分にとってのシャンベルタンとは違う気がする。」とまで考えられる人が相手なのであれば、議論の呼び水となるため、それはそれで面白さもある

このように、ブルゴーニュという専門用語を用いて比喩とする場合は、とにかく相手を慎重に選ぶ必要があるのは、間違い無いだろう。

品質とテロワール

この比喩表現がある程度通じる相手という前提にはなるが、そのワインの品質に対する比喩表現としても、ブルゴーニュ、ボルドーといったパワーワードは便利だ。

ここで、「ブルゴーニュには確かに特段優れたワインがあるけど、全部が全部素晴らしいわけじゃない。」などといった、(筆者のように)ひねくれた返答はご無用だ。

ブルゴーニュの一級畑、最高の特級畑といった比喩表現は、品質が対象なのであれば、純然な褒め言葉として十分に機能する

ところが、品質とテロワールを分けて考えた場合、品質のために使っていたはずの褒め言葉が機能しなくなる局面がある。

例えば、エトナならではの火山と島というテロワールを活かし、土着品種であるネレッロ・マスカレーゼの個性を大切にして造られた赤ワインに対して、ジュヴレ・シャンベルタンの優れた一級畑を想起させる、という比喩表現を用いたとする。

品質面に限っていえば、確かに褒めているのだが、エトナのワインであることに拘りの強い造り手なら、「テロワールも品種も全く違うのに、何がジュヴレだ!」と憤慨しそうだ。

便利な局面も確かに多い比喩表現。しかし、使う相手とコンテクストを間違えれば、大惨事にもなりかねない

言葉とは、本当に難しいものだ。