2022年2月13日17 分

誰がために鐘は鳴る <カタルーニャ特集:プリオラート編>

世界を旅していると、自分がその場所にいる違和感を全く感じない街に出会うことが稀にある。異国であるはずの場所が、生まれ故郷のように肌に、心に、自然と馴染むのだ。街角から聞こえてくる色とりどりの音が、耳あたりの良い大阪の言葉にすら聞こえてくるのだ。

筆者にとっては、ニューヨークとバルセロナが、そういう街である。

心地良さの理由は、はっきりしている。ニューヨークにも、バルセロナにも、反骨精神が強固に根付いているからだ。自由と尊厳を求める人々のエネルギーが巨大な渦となって、街全体を満たしているからだ。だからこそ、大阪の下町で、社会的マイノリティーとして生まれた筆者は、その場所をホームと感じることができたのだと思う。

長らく訪問は叶っていないが、久々に心の故郷の一つに、想いを馳せよう。

騒がしく、慌ただしく、エネルギッシュで、優しく、何よりも美しいバロセロナに。

そして、バルセロナを囲む、カタルーニャ自治州という驚異的な魅惑な放つ偉大なワイン産地に。

カタルーニャの反骨精神

かつて地中海の覇者として栄華を誇ったカタルーニャ帝国は、15世紀以降、苦難の道のりを歩んできた。

地中海貿易の覇権をオスマン帝国とベネチアに奪われたのと時をほぼ同じくして大航海時代が始まり、地中海でも、大西洋でも、巨大貿易網から蚊帳の外となってしまったカタルーニャは、1,479年のスペイン統一によって、ついに政治的独自性も奪われてしまった。さらに、アフリカ大陸における植民活動からの除外が追い討ちをかけるように、カタルーニャはますます衰退の一途を辿っていた。1,659年には、フランス・スペイン戦争の落とし前として、北カタルーニャがフランスへと割譲され、1,701年から始まったスペイン王位継承戦争ではスペイン王家に対して反旗を翻したが、1,714年にバルセロナが陥落し、地方自治が認められてきたカタルーニャの政府と議会は解体、言語(カタルーニャ語)を奪われる、という最も残酷な文化破壊を受けるに至った。

しかし、追い詰められたカタルーニャ人は持ち前の反骨精神を発揮し、まずは農業で財をなし、続いて商業と綿織物工業が隆盛を極め、18世紀後半には、スペインでも筆頭格の先進的経済地域にまで成長した。19世紀前半のスペイン産業革命時も、多くの都市が外資に頼る中、カタルーニャは地元資本で突き進んだ。19世紀中頃には、カタルーニャ語とカタルーニャ文化を復興させるルネサンス運動が興り、カタルーニャの誇りがいよいよ戻ろうとしていたが、20世紀に入ってからも、動乱の日々が収まることはなかった。

1,909年の市民運動に対する政府軍による厳しい弾圧、1,923年から1,930年まで続いたミゲル・プリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権が、カタルーニャのナショナリズムを強力に刺激したことにより急進化、1,932年には自治政府と自治憲章が承認されるに至ったが、1,936年のスペイン内戦によって、すぐさま自治権は撤回され、1,939年以降のフランシスコ・フランコ・バーモンデ政権下では、再びカタルーニャ語とカタルーニャ文化に対する無慈悲な弾圧を受けた。この文化的弾圧は、フランコが1975年に死去し、民主的な新政権によって1,979年に自治憲章が復活したことによって、ようやく終焉を迎えたのだ。

その間も粘り強く自尊心を保とうと、カタルーニャは戦ってきた。第二次世界大戦で完全に疲弊したものの、1,960年代から一時的に経済は回復。しかし、ようやく1,979年に自治権が完全に戻ったと同時に、第二次オイルショックが発生、カタルーニャ銀行の倒産によって、バルセロナは失業者であふれた。

この時も、カタルーニャ人は反骨精神を発揮した。1,985年頃にはカタルーニャ経済は立て直され、1,986年にスペインがECに加盟した際に、外国企業の約1/3がカタルーニャに進出した要因となり、1,992年にはバルセロナで夏季オリンピックも開催された。

2,000年代に突入してからは、ナショナリズムが再興し、新たな自治憲章をめぐって中央政府と法廷で争ったり、大規模な独立デモが発生したり、独立を問う住民投票が行われたりと、カタルーニャは相変わらず混乱している。

中世以降のカタルーニャの歴史を、書き連ねた理由はただ一つ。奪われ、取り戻し、また奪われても立ち上がり、抑圧されれば必死に抵抗する。カタルーニャの歴史を形作ってきた、カタルーニャ人の精神的性質を知らなければ、カタルーニャ州というワイン産地で何が起こってきたのかを理解することは難しいからだ。

プリオラートの変遷

カタルーニャ特集前編となる本編では、カタルーニャ自治州の最重要産地の一つ、プリオラートに焦点を当てる。

バルセロナから南西方向に車で2時間ほど走ると、モンサン山脈の南側斜面に広がるプリオラートに到着する。葡萄畑は、標高100m付近から800mを超えるエリアにまで広がり、時折現れる車一台がギリギリ通れるような細い山道は、恐怖心を覚えるほど曲がりくねりながら、アップダウンを繰り返す。まるでジェットコースターのようだ。葡萄畑に着くと、まっすぐは立っていられない。傾斜角が40度を超えるような急斜面だらけの畑では、気を抜くと命に関わる怪我をする。プリオラートを初めて訪れた人なら、誰もが真っ先に思うだろう。よくこんなところに、これだけの数の葡萄畑を拓いたものだと

プリオラートで本格的なワイン造りが始まったのは、13世紀中頃。1,194年に、カソリック系修道会のカルトジオ会(*1)に属するスカラ・デイ修道院が建設され、赴任した修道士たちは葡萄畑を拓くことに興味をもった。やがて、葡萄栽培とワイン醸造が始まり、最初のワインは1,263年に誕生した。修道院主体のワイン生産は長らく続いたが、1,835年にフアン・アルバレス・メンディサバル首相が発令した永代所有財産解放令(通称メンディサバル法)によって、修道院の所有地は没収され、小規模農家に分配された。19世紀末にフランスをフィロキセラが襲った際には、代替品としてプリオラートからも非常に多くのバルクワインが(主にボルドーに)送られたが、プリオラートも1,893年からフィロキセラ禍に見舞われ、1,910年までにはほぼ壊滅状態に陥った。平地の多いモンサン(プリオラートを取り囲むように位置するDO)はまだましだったが、山間の急斜面にばかり畑が拓かれていたプリオラートは、そのあまりに劣悪な作業効率故に、復興もままならなかったのだ。

*1:今でも製法が完全に明かされていない、世界で最も洗練されたリキュールの一つであるシャルトリューズの秘伝が伝わる修道会としても知られる。フランス語でシャルトリュー会とも呼ばれる

プリオラートの葡萄畑に、機械が入り込む余地はない。

だが、カタルーニャ人は簡単には諦めない。フィロキセラ禍で壊滅したプリオラートの、ワイン産地としての体裁をなんとか保ったのは、カタルーニャの文化と歴史を護る使命を受けた、スカラ・デイ修道院の継承者たちだった。解体された修道院の資産を受け継いだ人々が設立した共同組合が中心となり、プリオラートのレガシーを守ろうと奮闘した結果(*2)、1,932年にスペインで初めてのワイン憲章が制定された際には、プリオラートも含まれることとなった。しかし当時のスペインは、内戦などの影響で混乱を極めており、プリオラートDOは正式な認定には至らず、ようやくDO産地として認定されたのは1,954年だった。プリオラートの守護者となったスカラ・デイ協同組合は、1,973年にセリェール・スカラ・デイと名を改め、今も変わらず、プリオラート最古のワイナリーとして存続している。

*2:当時唯一ボトリングを行なっていたのはダ・ムラ社。バルクワイン生産が大半を占め、高級ワイン産地としての実態が実質的に消滅していたプリオラートが、1,932年の時点で真にDOの地位に相応しかったかは、大きな疑問が残る。

スカラ・デイ修道院跡

フィロキセラ禍以降、土俵際で粘り続けてきたプリオラートに、真の夜明けが訪れたのは1,990年代に入ってからのこと。

1,979年にプリオラートで葡萄畑を購入した、地元タラゴナ出身のカタルーニャ人、ルネ・バルビエ・フェレールは、後に「四人組」(正しくは、五人組)と呼ばれることになる仲間たちと共に、1,989年ヴィンテージのワインで衝撃のデビューを果たした。高名な「四人組」の活躍と改革に関しては、十分過ぎるほど情報が出ているため、詳細は割愛するが、その成功の背景には、ロバート・パーカーJr.をはじめとする有力な評論家たちや、カベルネ・ソーヴィニヨン、シラーといった国際品種をブレンドした、当時モダンとされていた濃厚なスタイルが部分的にあったのも事実だが、それ以上に、品質向上への不断の決意と、テロワール・ワインへの回帰があることは知っておくべきだろう。

「四人組」登場後のプリオラートが、国際市場で極まった高評価を受けたことから、2,000年には、カタルーニャ州政府がプリオラートを最高位格付け(カタルーニャ語でDOQ)に認定したが、中央政府による公式な追認は、2,009年までずれ込んだ

現在、フィロキセラ禍で600ha程度にまで落ちた葡萄畑は(最盛期には5,000haあった)2,000haまで回復し、ワイナリーの数は100を優に突破している。

そして、「四人組」の引退も近いなか、彼らの子供世代が躍動し、外部からの優秀な参入者も増え、プリオラートは今、その歴史上、品質面では最も素晴らしい時を過ごしていると言えるが、様々な新興産地への関心や、世界的なワインのライト化嗜好に押され、停滞気味な側面もある。

そんな今だからこそ、改めて見つめ直したい。プリオラートが、なぜリオハと並んでスペインの最高位格付けにある産地なのか、その本当の意味を。

プリオラートの主要な土壌を形成するリコレッリャ(粘板岩)

プリオラート7傑

プリオラートの偉大さは、現在のプリオートをリードする最も優れた造り手たちに代弁してもらうのがベストだろう。本特集にあたって、プリオラートの7傑を選出した。

Cellers Scala Dei

セリェール・スカラ・デイは、プリオラート最古のワイナリーにして、今なお最上の一つである。スカラ・デイ修道院解体後に、その資産を受け継いだ5つの農家が1,844年に協同組合を設立し、現在まで続くワイナリーの母体となった。今ではプリオラートでも最大級のワイナリーとなり、カジュアルな価格帯も含めて数多くのワインを手掛けている。だが実は、それらのカジュアルワイン群によって、セリェール・スカラ・デイが誇る、真に偉大なワインの存在が隠れてしまっている。そのワインと葡萄畑の名は「Sant Antoni」。少なくとも350年以上前から、ガルナッチャとその亜種であるガルナッチャ・ペルーダが栽培されてきた、現存するプリオラート最古の葡萄畑の一つであり、スカラ・デイ修道院の遺産でもある。興味深いのは、Sant Antoniはモンサン山脈の中腹、標高約650mの位置に、水平に切り開かれた畑であり、土壌はプリオラートの主要土壌であるリコレッリャ(粘板岩)ではなく、赤色粘土と石灰質の土壌となっている。長年のワインファンならすでにお気づきかも知れないが、中世に修道士が切り開いた粘土石灰土壌の葡萄畑というのは、ワインの世界において特別な意味がある。そう、それはブルゴーニュの偉大な葡萄畑と、同じ資質をもった畑ということなのだ。しかも、当時の修道士には、驚異的な精度で、最も優れた畑が拓ける場所を見つけ出すという秘技が伝わっており、修道士が開拓した産地に残る最も古い畑は、現在でも最上の畑であるケースは、ヨーロッパ各地で枚挙にいとまがない。Sant Antoniは驚くほど煌びやかなアロマと、究極的なエレガンスが備わったワインを生み出す真に偉大な畑だ。ブルゴーニュに例えるなら、まさに特級畑のミュジニーである。パワフルなワインというイメージが先行しがちなプリラートだが、この圧倒的な個性とエレガンスを知らずして、プリオラートは決して語れない。

どこか神聖な空気が漂う、Sant Antoni

Álvaro Palacios

リオハの名門パラシオス家に生まれ、ルネ・バルビエと共にプリオラート復活の立役者となったアルヴァロ・パラシオスは、現在でもプリオラートの頂点を走る偉大な造り手だ。名家の生まれという出自と、ボルドーのシャトー・ペトリュスで働いた経験が、プリオラートで最も偉大なワインを生み出すという使命を、アルヴァロに与えたのだろう。1,993年に購入した葡萄畑を、丘の頂上にある小さなチャペル(Hermitage)から、「L’Ermita」と名付け、1,995年のデビュー以降、プリオラート最上のワインとして、そして現在ではスペインで最も高価なワインの一つとしてL’Ermitaは名を馳せている。リコレッリャ土壌のL’Ermitaは北東向きの急斜面(日差しが非常に強いプリオートにおいては、北向きはプラス要素となる)で排水性が高く、1,900年頃から植えられたガルナッチャを中心に、僅かなカリニェナと白葡萄が混植されている。ワイナリー設立当初のワインには、ボルドーでの経験が強く反映されていたが、徐々にそのスタイルは純スペイン化し、現在では紛れもなく、プリオラート屈指の偉大なテロワールを反映したワインとなっている。L’Ermitaにインターナショナルスタイルのイメージをもっているのなら、その情報はもう古い。

レジェンドの一人、アルヴァロ・パラシオス(写真右)

Clos Mogador

スカラ・デイ修道院の継承者たちがいなければ、プリオラートの存続は無かったかも知れないように、ルネ・バルビエ・フェレールがいなければ、高級ワイン産地としてのプリオラートの復活はあり得なかっただろう。全プリオラートの恩人であり、稀代のヴィジョナリーでもあるルネは、コーヒーとパンでのんびりと朝食を取る彼と、街中の小さなカフェで頻繁に遭遇するほど、どこにでもいそうな、普通のおじいさんだ。決して気取らず、おごらない。どこまでもダウン・トゥ・アースなルネの類まれなる人間力には、誰もが吸い込まれてしまう。ワインとしてのクロ・モガドールの特徴は、ガルナッチャとカリニェナに、カベルネ・ソーヴィニヨンとシラーをブレンドするというスタイルにあるとする声も多いが、筆者の意見は異なる。生粋のテロワール主義者であるルネにとっては、葡萄品種よりも畑そのものが大事であり、最終的にはどの品種もテロワールに適合さえすれば、天地の一部となる。カベルネ味やシラー味に決してならないクロ・モガドールのワインを飲む限り、そう感じずにはいられないのだ。現在は長男のルネ・バルビエJr.がワイン造りを担い、葡萄畑はビオディナミ農法に転換、カベルネ・ソーヴィニヨンとシラーの比率は少しずつ下がってはいるものの、テロワール絶対主義的スタイルはますます進化し、葡萄畑で生まれ育った息子のワインは、伝説的な父の作品をいよいよ上回ろうとしている。特に2,011年にバリックを減らし、フードルでの熟成を取り入れて以降のクロ・モガドールは、まさに圧巻の出来。長らくこのワインを飲んでいない人には、ぜひ再訪していただきたい。その進化に、心から驚かされるはずだ。

ルネの屈託のない笑顔に誰もが引き込まれる。

Mas Martinet Viticultors

「四人組」の一角であるマス・マルティネ・ヴィティクルトールは、どちらかというと地味な存在だった。フラグシップであるClos Martinetは、とにかくパワフルで固く、頑固なワインだった。しかし、創設者であるジョセップ・リュイス・ペレスは、最高の子宝に恵まれた。現代のプリオラートを代表する才女にして、スペインワイン界の至宝、サラ・ペレスだ。幼い頃からマス・マルティネに入り浸っていたサラ(幼馴染みのルネ・バルビエJrとは夫婦になった)だが、ワイナリーで実際に働き始めた当初は、超男性社会に溶け込むのに必死だった。自らが求めるワインの味わいと、マス・マルティネのスタイルが一致していなかったことにも、酷く思い悩んだそうだ。しかし、徐々にワイン造りの主軸を担うようになり、サラは独自の道を歩み始めた。その変化の象徴たる存在が、「Els Escourçons」と「Camí Pesseroles」というブルゴーニュ型のボトルに詰められたワインだ。Els Escourçonsは、「プリ・フィロキセラのプリオラート」をコンセプトに、高標高のガルナッチャをアンフォラで発酵し、アンフォラとデミジョン(大きなガラス瓶)で熟成。Camí Pesserolesは、「1,950年代のプリオラート」をコンセプトに、高樹齢のカリニェナにガルナッチャをブレンドして開放型の栗樽で発酵、栗樽とデミジョンを熟成容器に採用している。共に一般的なプリオラートからすれば異質だが、完成度は圧倒的に高く、驚異的に美しいワインだ。往年のClos Martinetにもサラによるファインチューンは施されているものの、現在のマス・マルティネにとって、真のフラグシップはEls Escourçonsであり、Camí Pesserolesである。生産量は共に2,000本弱と極小だが、血眼になってでも探し出す価値がある。

Clos Martinetを囲む、真のフラグシップキュヴェ。

Clos i Terrasses

パリ出身のダフネ・グロリアンは、優れた人間を周囲に引き寄せ、彼らから学びながら、自身も三段跳びで進化し続ける異色の才に恵まれた女傑だ。マスター・オブ・ワインであるキット・スティーヴンスの元で働いていた時に、ルネ・バルビエとアルヴァロ・パラシオスに出会い、プリオラートに移住した彼女は、四人組の一人として永遠に語り継がれる功績を残してきた。ワイナリー設立当初は、ルネとアルヴァロからアドヴァイスを受け、ワイン造りを行なっていたが、自身の直感とブルゴーニュでの経験を活かし、彼女もまた独自の道を突き進むことになった。2,004年には栽培責任者としてエステール・ニン(現在は自身のワイナリーであるFamília Nin-Ortizで、驚異的なワインを生産している)を採用し、プリオートにおけるビオディナミのパイオニアとなった。セラーでの改革も断続的に行われてきたため、フラグシップワインである「Clos Erasmus」は時代によってスタイルがかなり異なる点も興味深い。特に、より軽やかで透明感に溢れる酒質になった2,012年以降のClos Erasmusは、まさに向かう所敵なし。2,000年代のみなぎるようなエネルギーが魅力的なワインも捨てがたいが、歳を重ねたダフネの新境地が垣間見える近年の作品は、正真正銘、プリオラートの象徴にふさわしいワインと言える。

2ndラベルに相当するLaurelの品質も素晴らしい

Mas Doix

1,998年に、ドイシュ家とリャゴステッラ家によって設立されたマス・ドイシュは、テロワールに深く根差したワイン造りによって、プリオラートの偉大さを体現する。カジュアルな価格帯から、最高級のラインナップまで、一貫した高品質と緻密なテロワール表現が素晴らしく、その実力は疑いようもなく、プリオラートのトップクラスに位置している。ビオディナミも取り入れた独自のオーガニック農法で葡萄畑は管理され、マス・ドイシュのワインに特徴的なエネルギー感をもたらしている。中でも圧巻は、2種のトップキュヴェ。「1902」はカリニェナ、「1903」はガルナッチャの、樹齢100年を優に越える葡萄畑から生まれ、共に15%に近いアルコール濃度を全く感じさせないほどの軽やかさとしなやかな質感が、濃密な味わいと共存している大傑作。1902は1,000本前後、1903は300本前後と、超少量生産だが、プリオラートを象徴する2品種の特性を真に理解するためには、是非とも体験しておくべきワインだ。

創設者のヴァレンティ・リャゴステラ(写真右)

Terroir al Límit Soc. Lda

2,000年にマス・マルティネで偶然出会った二人の若者は、ペレス家の助けを得てプリオラートに葡萄畑を購入し、パワフルで濃縮した印象の強かったプリオラートとは、完全に真逆の表現を纏った繊細でエレガントなワインを造り始めた。2011年に、自国でのワイン造りに集中するためにワイナリーを去った一人は、イーベン・サディ。南アフリカのカリスマ醸造家として、今では世界的スーパースターになった人物だ。もう一人、そして本当の主役の名はドミニク・フーバー。ドミニクが故郷のドイツを離れ、プリオラートに完全に腰を据えたのは、2007年。フルタイムで畑仕事に集中するようになったドミニクは、プリオラートのような非常に暑く、極端に乾燥した地域では、単純にオーガニックやビオディナミをするだけでは不十分だと実感し、さらに厳格な栽培管理に移行した。当時はまだ、四人組を始めとした先駆者たちは、プリオラートの中でもより温暖なグラタリョップスの周辺に葡萄畑をもち、遅摘みした葡萄から濃厚なワインを造ることが多かった。一方で、テロワール・アル・リミットの畑はよりマイルドな気候が特徴となる北部のトロジャにあるため、糖度を気にせずに、葡萄が生理的成熟に達したタイミングで収穫することによって、テロワールの透明性を宿した、精密で優美なワインを造り出すことが可能だった。あまりにも周囲のワインとは違ったこと、ドミニクとイーベンがスペイン人ですら無かったことから、彼らを異端扱いするものも決して少なく無かったが、冷静に見れば、彼らのスタイルは北部トロジャのテロワールに限りなく忠実であろうとした結果生まれたものであり、決して南部の濃厚なワインに対するカウンターカルチャー的行為では無かったことは明白だ。テロワール・アル・リミットは、カジュアルな価格帯の赤も、鮮烈で興味深い白ワインも素晴らしいのだが、やはりトップキュヴェに相当する、樹齢90年のカリニェナから造られる「Les Tosses」と、粘土石灰質土壌の畑に植えられたガルナッチャ・ペルーダから造られる「Les Manyes」の単一畑ワインが圧倒的に凄い。厳格なビオディナミ農法でエネルギーを蓄えた葡萄は、周囲よりも2~3週間早いタイミングで収穫され、非常に軽い抽出と全房発酵、ストッキンガー製のフードルとコンクリートタンクでの熟成を経て、プリオラート随一のエレガンスを表現する。

生真面目で少し気難しいドミニク。

プリオラートは、今が最上

濃厚なビッグワインの時代が終焉に向かい始めた頃から、順風満帆に思えたプリオラートの未来に暗雲が立ち込めた。プリオラートは、そのスタイルにおける象徴的な産地の一つとして、成功してきたからだ。さらに、歯止めの効かない温暖化は、元から暑く乾燥したプリオートが、方向修正をすることを困難にもしてきた。しかしプリオラートは、世界でも有数の負けん気の強さで知られるカタルーニャ人の誇りだ。どれだけ過酷な苦境に立たされても、何度も立ち上がってきたカタルーニャの象徴だ。だからこそ、プリオラートを前時代的なビッグワインと思っている人にこそ、今のプリオラートを飲んでいただきたい。そして、新しいワインファンには、過去の情報に流されずに、今のプリオラートを真っ直ぐに見つめて欲しい。プリオラートは、いつだって今この瞬間が、最上なのだから。

手料理を振る舞ってくれた、ルネ・バルビエJr.