2022年3月8日4 分
SommeTimesでは、ワインにおける古来の価値観である「テロワール」に関する話が頻出する。
そこで今回は改めて、SommeTimesとしてのテロワールの定義を明確にしておこうと思う。
特にメインライターである筆者(梁 世柱)のあらゆる記事と密接に関わってくる内容となるため、是非ご一読いただきたい。
まずは、テロワールの前段階の話をしよう。
この前段階は、自然環境そのものである。
特定のエリアの土壌、気候、生態系を含めた「空間」と置き換えても良いだろう。
しかし、この「空間」は、我々の周りに常にある空気と同様に、基本的には「ただそこに存在しているだけ」であり、特殊な意味性をもつには至らない。
つまり、その空間がブルゴーニュにあろうが、リオハにあろうが、北海道にあろうが、空間のままではそれ自体に意味は生じないため、(ワイン目線から見た)「違い」という概念はまだ生まれていない。
テロワールが形成され始めるのは、次の段階からだ。
畑を拓く。この行為が、テロワールの始まりとなる。
人が「そこにあっただけ」の空間に、畑という「境界線」を設置することによって、その空間は初めて特別な意味を伴った「場所」になる。
そしてその「場所」には、土壌、傾斜、水はけ、日当たり、気温といった要素が付加される。
ここまでの流れをおさらいしておこう。
空間 → 境界線(畑) → 場所
となるのだ。
さて、境界線ができたことによって、意味をもち始めた「場所」だが、この段階ではまだ不完全だ。
なにせ、ワインにとって決して欠かせないものである「葡萄」がまだ介在していない。
そう、テロワール形成の最終段階は、葡萄樹の植樹である。
境界線の設置によって、ただの空間が、意味をもった特定の場所へと昇華したとは言え、その場所は自身の個性を表現する「手段」をもっていない。
そして、その「手段そのもの」であり、場所の個性を写しとる鏡にも、独自の色を足すフィルターにもなり得るのが、葡萄だ。
その場所に特定の葡萄品種が植えられる。
ここまできて、ようやくテロワールの原型が完成する。
具体例を挙げていこう。
ブルゴーニュのムルソーとシャルドネ。
ピエモンテのバローロとネッビオーロ。
カタルーニャのプリオラートとガルナッチャ。
カリフォルニアのナパ・ヴァレーとカベルネ・ソーヴィニヨン。
このように、テロワールと葡萄品種はセットとして考えた方が、辻褄が合うことが圧倒的に多い。
いや、イメージしやすい、と言った方が良いだろうか。
例えば、ロワールのアンジュという場所の情報だけでは、よほどその場所の土壌や気候に詳しい人でも無い限りは、何も伝わらない。しかし、アンジュのシュナン・ブランとなった時点で、具体性が生じ、一気にイメージしやすくなる。
注意すべきは、場所と葡萄がセットになることによって完成するテロワールの原型には、特に制約が無いということだ。
極端な話をすれば、ブルゴーニュの葡萄畑にカベルネ・ソーヴィニヨンを植えても、(良し悪しは別問題だが)テロワールとしてちゃんと成立する。
つまり、これらの要素を統合してテロワール・ワインの正体を考えると、テロワールが反映されたワインとはつまり、その場所にその葡萄を植えることによって生じると予測される個性を失することなくワインへと転化させたもの、となる。
ピュリニー=モンラッシェで育ったカベルネ・ソーヴィニヨンの個性が生きてさえいれば、それは立派なテロワール・ワインということになるのだ。
余談だが、仕立て(垣根、株、棚など)、剪定(ギュイヨ、コルドンなど)、植樹率(○○○○本/ha)、収量(○○hl/ha)、農法(慣行、ビオロジック、ビオディナミなど)と言った要素は、あくまでもテロワールに対する「アレンジ」の範囲だと思った方がシンプルで良いだろう。これらの変数は最終的なワインに大きな影響を与えるが、テロワールに含めてしまうと、複雑化しすぎる。
まとめると、SommeTimesが定義するテロワールとは以下のようになる。
ただの空間に、人が畑という境界線を引くことで、その空間が場所へと変わり、その場所に植えられた葡萄に宿った特別な個性が、テロワールとなる。
最後に一つ、重要なポイントを書き足しておこう。
境界線を引くのも、葡萄を選んで畑に植えるのも、人にしかできない。
つまり、テロワールは、人の存在なくしては、決して成立しないものだ。