2021年8月11日7 分

Advanced Académie <12> フィロキセラ

最終更新: 2021年11月5日

SommeTimes’ Académie <14> ブドウの虫害と生理障害でも簡潔に触れたが、本稿ではワイン産業の歴史上、最も猛威をふるった害虫であるフィロキセラの詳細を追っていく。

そもそもなぜ、フィロキセラが世界中のワイン産業を壊滅寸前にまで追い込むほどの被害を及ぼしたのか。理由は至って単純なものだ。世界中で造られているほぼ全てのワインは、ヴィティス・ヴィニフェラ(以降、ヴィニフェラと表記)というただ一つの種に属するブドウから造られていて、フィロキセラはヴィニフェラにとって最悪の天敵だった、ということだ。クローン増殖によって、遺伝的多様性が失われていたこともまた、天敵に対する脆弱性を高める要因となった。

フィロキセラ禍の経緯

19世紀の初めごろからアメリカ産葡萄がフランスに輸入され始めたが、その時は恐るべき付属物が未知の葡萄と共に渡来するなど、誰も想像していなかった。植物の輸出入に関して厳しい検疫をするという考えは、当時ありもしなかったのだ。

最初にヴィニフェラを攻撃したのはフィロキセラではなく、うどんこ病だった。1845年にイングランド・ケントで発見されたうどんこ病は、僅か数年の間にヨーロッパ中のヴィニフェラに襲いかかり、経験豊富な葡萄栽培家たちをパニックに陥れた。フランスのように、うどんこ病によって生産量の60%以上を失った国は少なくない。幸いなことに、うどんこ病の原因となるウドンコカビに対して、硫黄粉剤が有効であることが、かなり早期のうちに判明した。硫黄粉剤が比較的安価であったことも、問題の早期解決にとって、プラスに働いたため、ヨーロッパのうどんこ病被害は、1858年頃には終息した。

うどんこ病の撃退に成功してから間もない1862年、ついにフィロキセラという悪魔がやってくる。不幸にもこの悪魔を最初にヨーロッパの地に招いてしまったのは、南仏のガール県でワイン商を営んでいた、ジョセフ=アントワーヌ・ボルティという人物だった。自身が管理する小さな葡萄畑にニューヨークから購入した苗を植えたが、僅かに2年後には周辺の葡萄が枯れ始めた。この「原因不明」の現象は瞬く間にローヌ南部全体を襲い、1868年にはラングドック地方に進出。1880年頃までにフランス全土に蔓延し、ついにヨーロッパ各地へと猛烈なスピードで広がっていった。

原因不明の危機を脱するきっかけを作ったのは、モンペリエ大学ジュール・エミール・プランション教授だった。プランションは、専門家のガストン・バジーユフェリックス・サユと共に調査を行い、1868年南仏のサン=マルタン=ド=クロで、まだ枯死していない葡萄樹の根から、フィロキセラを発見した。1873年には渡米して調査を行いアメリカ原産のヴィティス・リパリア種、ヴィティス・ルペストリス種、ヴィティス・ヴェルランディエリ種がフィロキセラに耐性をもっていることを突き止める。

実は1869年に、ガストン・バジーユがアメリカ産葡萄の台木にヴィニフェラを接木することを提案していたが、すぐには実行に移されなかったようだ。アメリカでの調査から戻ったプランションも、植物病理学者のピエール=マリー=アレクシス・ミラルデ、昆虫学者のチャールズ・ヴァレンタイン・ライリーと共に、接木の方法を探っていた。接木をしても葡萄が長年生きるのか、全てのアメリカ産台木にフィロキセラ耐性があるのか、接木するとアメリカ産葡萄特有の「フォクシー・フレイヴァー」が出てしまうのか、ヴィニフェラの特徴が失われてしまうのか、当時はまだ不確定要素だらけであったが、集中的かつスピーディーな実験が繰り返されるようになった。公式な記録に残る最初の接木は、1874年に葡萄苗業者のアンリ・ブーシェが行ったアラモン種のアメリカ産台木への接木とされている。

一方で、フィロキセラに対して一定の殺虫力を発揮することがわかっていた二硫化炭素も、確実性が高いと考えられる対策として研究が進んでいた。二硫化炭素は揮発性が高く、空気中に放出されると爆発しやすいという、非常に厄介な難点をもっていたが、この化学物質を地中深く、そしてなるべく根の周辺にのみ注入するための様々な方策が考案された。しかし、二硫化炭素はコストが高い上に、毎年処置する必要があり、効果も治療というよりは緩和に近いものであった。また当時は、殺虫剤を地中に大量に注入することが、回り回ってどのような環境破壊に繋がるか、といった問題を議論する余裕も見識も無かった。

二硫化炭素派と接木派の対立が終わりを迎えた出来事は、1881年ボルドーで起こった。国際フィロキセラ会議で、アメリカ産台木へのヴィニフェラの接木は、ヴィニフェラ本来の特徴を減滅させないと結論づけられたのだ。

しかし、アメリカ産台木への接木は願ったほど順調には進まなかった。まず当時、生き残った葡萄樹を守るために、アメリカ産葡萄の輸入が禁止されたばかりであった。台木の確保に困難しただけでなく、各地の土壌(特に石灰質土壌)にどの台木が適しているのかも、まだ判明してなかったし、植え替えにかかる経済的負担(新たな苗木と植樹のコスト、3年間は収穫で出来ないというコスト)や、異種混合に対する文化的な意味での嫌悪感も非常に根強かった。接木と植え替えを渋った造り手たちはまだ、殺虫剤による対策を続けていたが、時間はかかったものの、やがて接木による問題の解決が大きな規模でなされるようになった。残念ながら、この解決が「間に合わなかった」地域も非常に多かった。

フィロキセラの生態

アブラムシの一種である体長1mm程度のフィロキセラは、受精を必要としない単為生殖であるため、条件が整えば急激に個体数を増やしてしまう。最初は葡萄樹の根に寄生して、根に孔をあけて唾液を注入する。寄生された根の細胞が異常に増殖した結果、「虫こぶ」という構造が根に作られ、フィロキセラに養分を供給しながら、卵が孵化するまで保護してしまう。孵化した幼虫は根や幹の表面を這い回り、やがて風に飛ばされて別の場所へ運ばれていく。運ばれた先が大好物の葡萄樹の近くであれば、さらに繁殖を繰り返していく。このタイプのフィロキセラは「根こぶ型」と呼ばれている。葉の裏に虫こぶを形成する「葉こぶ型」のフィロキセラも一部地域で見つかっている。

フィロキセラに寄生された葡萄樹は、光合成産物を失い、根が断裂し、食い荒らされた根から菌類が感染しやすくなる。収量は激減し、多くの場合、葡萄樹は枯死する。

葉こぶ型のフィロキセラが形成した虫こぶ。少々グロテスクなため、拡大表示に注意。

また、フィロキセラも突然変異によって進化し、台木の耐性を打ち破ってしまうことがある。1960~80年代に主にアメリカ合衆国・カリフォルニア州で広く導入されていた、AxR1という台木は、1900年代の初めごろにはすでにヨーロッパでフィロキセラへの耐性を失った可能性が指摘されていたが、1983年頃から、本格的にカリフォルニアで葡萄樹を枯死させ始め、甚大な経済的損失をもたらした。

このような例が、現状はフィロキセラ耐性を維持している台木にも起こりうる可能性は否定しきれない。

フィロキセラの功罪

フィロキセラ禍によって生み出された異種同士の接木という新たな技術は、実は葡萄栽培学上の、歴史的な分岐点ともなった。台木と土壌の相性もより詳細に判明している今、その土地にあった台木を正しく選択すれば、いかなる場所でも、あらゆる品種を育てることが出来るようになったのだ。国際品種という概念は、フィロキセラ無くしては生まれなかった可能性すら高い

一方で、自根の葡萄がもつ魅力は記憶の彼方へと消え去ってしまった。一部の砂質土壌粘板岩土壌の土地、チリのようにフィロキセラ・フリーを貫けた国では自根の葡萄が生き残っているが、自根ならではの魅力を正しく冷静に再発見するには、あまりにも検証対象となる数が少ない科学的には接木しても本来の特性は失われない、という見解を重々に承知した上で書くが、筆者は自身の数々の経験から、自根の葡萄にしか表現できない味わいの垂直性を、頑なに信じている者の一人である。